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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
    三 士族と徴兵
      常備兵の解体と徴兵制度
 明治四年(一八七一)八月二十日、兵部省は廃藩にともない従前の各藩常備兵を解隊し、東京・大坂・鎮西・東北の四鎮台を設置した。大坂鎮台は第一分営として小浜に営所を設置し、因幡から能登にかけて、若狭、越前を含む日本海側をその管轄地とした。兵部省は同時に、鎮台本・分営の常備兵は旧藩の常備兵を召集してあてるとともに、大中藩の常備兵はその県下へ一小隊ずつ備えおくこと、小藩でも地方の形勢により多少の兵隊を備えおくことなどを指示している(兵部省第七三)。また、十二月にはこれを府県の管轄に移した(兵部省第一九〇)。このため、たとえば福井藩の場合、廃藩当時常備第三小隊の中尉であった有賀清門は、四年の十月十三日解隊により職務を免じられた。その後十二月二十八日には足羽県より「県兵方」の大尉心得に任じられるが、翌五年一月十九日には「県下常備隊解隊」により免職になっている(越前史料)。他藩でも同様の経過をたどったと考えられ、この時、県兵解隊により免職になったものの多くが壮兵として鎮台に入営した。なお、四年十二月兵部省は小浜の兵営予定地が焼失したため、彦根に分営を移したと届けており、実際には小浜に兵営は置かれなかった(兵部省届)。
 六年一月十日、徴兵令が公布され、国民皆兵の方針が示された。徴兵令にもとづき徴兵適齢者の調査を行い「徴兵連名簿」等を作成するのは戸長の役目であった。徴兵令は膨大であり、その「抄録」が頒布されたが、同年五月には、旧足羽県下の郡中総代は、戸長が布令を熟読せず「直に編隊出兵」などとの間違いを犯すことを恐れ、各郡を巡回してその徹底をはからなければならなかった(上田重兵衛家文書)。
写真17 徴兵令についての伺

写真17 徴兵令についての伺

 県下では徴兵が行われたのは七年からであり、この年の「徴兵年齢総員」は若狭五八三人、越前六〇一四人であり、うち徴員はそれぞれ二人、一四四人であった(『敦賀県治一覧表』)。徴兵令公布の前日一月九日に鎮台の配置も改定され、足羽・石川・新川の三県が、第三軍管名古屋鎮台金沢営所(第七連隊)の、敦賀・滋賀・三重・渡会の四県が第四軍管大阪鎮台大津営所(第九連隊)の管轄地にされた(太政官第四号)。ところが、同年一月十九日に足羽県が敦賀県に合併されたため、十二月には越前八郡は名古屋鎮台管轄に移された(陸軍省五七五)。このため七年の最初の徴兵開始以来、福井県域は越前と若狭に分割されて管轄されることになる。なお、九年八月敦賀県は消滅し、石川・滋賀県に分属したが、軍管区域は従前のとおりとされた(陸軍省達第一四四号)。その後、十七年一月の軍管改定では、越前は第三軍管名古屋鎮台第六師管金沢営所の管轄、若狭は第四軍管大阪鎮台第八師管姫路営所管轄となった(陸軍省達第一三号)。
 西南戦争の戦死者一五三人の経歴により、部分的ではあるが、本県の人びとが草創期の軍隊に組み込まれていくようすを知ることができる(「福井県史料」五)。戦死者一五三人は警察官二九人、壮兵(志願兵)五二人、徴兵五二人に分けられる(その他および不明者二〇人)。
 警察官はすべて士族であり、警部三人のほかは、四年から十年のあいだに警視庁巡査を拝命している。このことから、廃藩により職を失った士族が上京して巡査に職を求めたこと、さらに彼らが訓練された兵士として戦場に投入されたことを知ることができる。
 壮兵も士族が四六人(福井三四人、小浜一〇人、鯖江二人)とその大部分を占めるが、入営時期が五年三月の一日、二日に集中しており、このことは、「県兵」が福井と小浜に置かれたこと、五年一月の解隊により、引き続いて志願兵として大阪鎮台第一分営の彦根営所に入営したものが多かったことを物語る。なお、旧鯖江藩士の一人と平民二人(遠敷郡、大野郡)は四年七月、八月に志願入営しており、これは三年十一月の、一万石に五人ずつの割合で「庶人」からも募兵するという「徴兵規則」(太政官第八二六号)により応募した者と思われる。また、彼らのうち二〇人が近衛連隊に転属(大部分が六年三月末)、二人が熊本鎮台へ転営、九人が満期除隊(八年三月か)で、うち三人は後備軍に編入され、十年の臨時召募に応じている。他の一六人は記述がないが、その多くが三年で除隊後、後備軍に編入され、臨時召集されたものと思われる。
 徴兵は七年二九人(うち秋の臨時徴兵一一人)、八年九人、九年一三人、十年一人で、うち士族は二人にすぎない。越前出身者は名古屋鎮台金沢営所、若狭出身者は大阪鎮台大津営所に入営するものが多いが、名古屋鎮台、大阪鎮台伏見営所に入営するものもあった。また近衛連隊に転属したものも一三人あった。なお、十年の徴兵は今立郡の平民一人で、彼は金沢営所に入営後、同年十月に従軍し、同月戦死しているが、年齢は二六歳六月であった。



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