目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    二 石黒県政と県会
      行政機構の整備
 新設された福井県は、県令・少書記官のもとに庶務・勧業・学務・衛生・地理・出納の六課と警察本署と福井監獄署およびその支署を設置し、郡役所は組織・職員とも石川・滋賀両県からそのまま引き継いだ。二月から三月にかけて採用された判任官以上の県職員七五人(郡役所を除く)の前歴を「公文録」によりみるとつぎのようになる。
 まず二月には、西長利警部長や藤尾伍鹿庶務課長など一六人を主要ポストに任命しているが、彼らは西のような政府の内務・大蔵省や陸軍関係者、および藤尾のような静岡県職員からの採用であった。なんらかのかたちで石黒県令や多賀少書記官につながる人びとであるといえよう。三月にはさらに五九人が採用され、そのうち石川県から三一人、滋賀県から七人、静岡県から六人、東京から五人が任命されている。このように、福井県の発足時は、県令・少書記官が主要ポストの直接人事を行うとともに、石川・滋賀両県からの事務引継ぎのための人事が行われた。なかでも、石川県からの地租改正事業の引継ぎが大きな課題であったため、実務官僚レベルでは多数の石川県職員が採用された。
 その後、明治十五年(一八八二)には土木課が、十六年には兵事課と租税課が設けられるなど行政機構の整備が進められたが、さらに十九年七月の「地方官官制」(勅令第五四号)により大幅な改正がなされた。地方長官はすべて知事の名称に統一されるとともに、第一部、第二部、収税部、警察本部からなる四部制がしかれた。
 この改正後の同年十一月の『福井県職員録』をみると、山田税が徴収課長(判任官三等)、本多鼎介が農商課長(判任官四等)、萩原縫が学務課長(判任官五等)などといったように課長クラスに旧福井藩士族が五人在任している。また、これら五人の課長を含む福井県に本籍をもつ者が、奏任・判任官一七五人中八八人(郡職員を除く)と過半数を占めるまでに増加している。このように旧福井藩士族などの登用や、自由民権運動に参加していた県会議員の連合戸長への任用、さらに嶺南四郡の「復県運動」の指導者の郡長や県職員への任命が行われており、石黒県令は県政の円滑な運営をはかるために人事権を縦横に駆使していたと言えよう(表30)。

表30 明治17年改正による県会議員からの戸長就任者

表30 明治17年改正による県会議員からの戸長就任者
 その後、府県制施行前の二十三年十月には「地方官官制」が大改正され書記官一人と参事官二人が置かれ、庁務の分掌は、知事官房・内務部・警察部・直税署・間税署・監獄署に分かれ、また技師・技手を置くことができるようになった。ついで二十六年にも改正が行われ参事官は一人、直税間税両署が収税部とされた。



目次へ  前ページへ  次ページへ