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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    二 石黒県政と県会
      府県会規則の改正と福井県会
 明治十一年(一八七八)の三新法の一つである「府県会規則」の制定は、議員の公選により民意を吸収し、地方の反体制的動きを鎮静化させるところにねらいがあった。しかし実際に府県会が開かれると、民権派議員は自治権の拡大と予算の大幅削減による地方税負担の軽減を求め、「府県会闘争」とも呼ばれる激しい対立を議会と県令との間に引き起こすことになった。
 前述の石川県政の混乱もこうした全国的趨勢を背景としており、たとえば県会議員に当選した坂井郡の杉田仙十郎(定一の父)は、第一回石川県会が開会された十二年五月、「府県会規則ニ付不審書」のなかで、議事を地方税のみに限定したこと、議案の提出権が県令にあったこと、県会が否決した議案を内務卿の指揮権で執行可能にしたことを激しく批判し、結語には「万機公論ニ決スベシノ誓詞何ヲ以テ貫クヲ得ン」と述べている(杉田定一家文書)。
写真37 「府県会規則ニ付不審書」

写真37 「府県会規則ニ付不審書」

 これに対し政府は「府県会規則」や「地方税規則」をくり返し改正して、府県会に対する規制を強めていた。十三年十一月の太政官布告第四八号は、政府の財政難を地方に転嫁しようとしたものであり、府県会の抵抗がいっそう増すことが予想された。このため政府は、租税未納者の処分を強化するとともに、同布告第四九号で常置委員会を設置し、議会運営の円滑化をはかろうとした。さらに、十四年二月の布告第四号は議会の議決を経なくても内務卿の許可により議案を執行できるとし、県令にはじめて執行権が付与された。これらの法律改正は、府県会のありかたに大きな転換をせまるものであった。
 このように福井県会が創設された十四年は、明治前期の府県会のありかたの分水嶺ともいわれる時期にあたり、また福井県の設置自体が、こうした「府県会闘争」の緩和策としての側面をもっていたのである。したがって、十五年四月から五月にかけて東海・東北・北陸の一〇県を巡察した安場保和参事院議官が「福井県会ハ議員ト地方官トノ間概ネ親密ニシテ」と報告しているのも、こうした成立事情の当然の成行きともいえるのである(『地方巡察使復命書』)。



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