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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    一 大野藩の天保改革
      勝手方の改革
 天保十三年には参勤交代の出府費用にも差支えが予想されるくらいで、財政改革も喫緊の課題であった。しかし武士のみでは解決不可能なことなので、先の「更始ノ令」の趣旨は、百姓町人の理解と協力を得べく町在へも直ちに伝えられた。同時に厳しい倹約令も出されており、代官手代が出在し、庄屋宅へ「百姓・雑家惣家内中」を呼び集めて読み聞かせている(「公私御用留」野尻源右衛門家文書)。五月十五日には、町年寄以下の町役人、御用達などの有力商人を、逼塞の者まで残らず登城を命じ、利忠も臨席した前で中村重助が勝手取続きを頼む直書を読み上げた(「御用并変事」宮澤秀和家文書)。この時もともと中野村の大百姓で小算格などに登用されていた高井八左衛門は、直書に感服して金三〇〇〇両の献上を願い出て、即日一〇〇〇両献上し、残りは両三年のうちに献上することにしたという(「御用留」土井家文書、「私用録」高井八兵衛家文書)。
 六月には知行取に向こう三年間の面扶持(人数を基準に扶持を与えること)、金給取には減給分の割増が申し渡された。翌十四年の正月は、倹約のため年礼も門松もなく過ごし、五月には名目金や公金以外の借金二万二七八六両を在町で引き受けてくれるように求めている。前に述べた十月十七日付内山七郎右衛門宛の慰撫状には、名目金の過半が片付いたとある。
 面扶持などの年限が来た弘化元年(天保十五年)には、四月に「容易ならさる改革の義いまた行末聢と見留候と申程には参り難く」と(土井家文書 資7)、相続、末期養子、蔵米金銀の渡し方、部屋住・隠居の扶持方、知行取の在番の作法、借米、役高、居屋敷面積などを改正し、翌二年からの実施が触れ出された(「御用留」土井家文書)。

表166 弘化元年(1844)の借米

表166 弘化元年(1844)の借米


表167 弘化元年(1844)の役高

表167 弘化元年(1844)の役高
 このうち借米と役高についてみると表166・表167のようになる。蔵米は借米がなければすべて家臣の収入になるもので、一俵四斗としてすべて三ツ六分渡しとして計算されている。借米率は累進制が採られているが、それに基づいて差し引かれた残米の部分が家臣の実際の歳入である。例えば五〇〇石の知行取で一年に二二五俵、六〇石取の者ならわずか四五俵と三斗六升にしかならないのである。役高は従来の役料を廃止し、役職により役高として固定したもので、これも支出を押さえるための改正にほかならない。
 五月十三日の諸役人への直書では、借金も五、七年のうちには皆済にいたるだろうと述べているが(「御用留」土井家文書)、十二月三日にはまた一七〇〇両の御用金を申し付けた。町方では阿部善七の二二〇両を筆頭に、四二人で合わせて一二八〇両、在方も応分に負担して上納している(「御用留」斎藤寿々子家文書)。
 弘化二年七月には、あと二、三年もすれば改革も堅固に行き届くといい、九月には改革に功績のあった内山七郎右衛門への加増も行われたが(表165)、思うようには運ばれなかったようである。しかも第一章第二節でも述べたように、御用金や借金の保障で面谷銅山の元締や町年寄を務めた宮沢家が傾くのもこの頃のことであった。



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