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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    一 大野藩の天保改革
      綱紀の粛正
 同時に綱紀の粛正も図られた。田村又左衛門の「隠居」が許された天保十三年五月十四日、元方以下の諸役方へ下された直書によれば、この改革を「御家存亡の大事」と位置付けたうえで、「一統私を存じ申さず和熟」し、気付いたことは「他役の筋も隔意なく申し談じ」ることが強調されている(「御用留」土井家文書)。十七日には、改めて家中の者が家老や用人の家へ出入りすることを禁じ、酒食を共にしたり贈答などを行って、「諂諛の謗り」
 を受けることのないように厳しく申し付け、六月二十一日には町在からの家中役人への音信を禁止している(同前)。
 十四年七月には、家老以下諸役人の「役方心得」すなわち服務規程が改訂された。もともと寛政元年利貞が定めていたものを、時世の推移と共に「心得方等閑」になったというので、利忠の考えを付け加えて増補したものである。そこでは、何事も「器量一杯役義を勤め」、「公平」かつ「正路潔白」に陰日向なく取り扱うことが強調されている。諸役人が「その役義の名に相叶う様専一」に尽くすことを求め、「改革の趣意」が立つことを期待したのである(土井家文書 資7)。
 すでに述べたように、学問所の創設が仰せ出されたのは、右の心得の改訂と同じ時であった。利忠は、朝川善庵や杉田成卿に学ぶなど自身が好学であったこともあって、家臣に「芸術(学問や武芸)」を奨め、学問執心の者へ書籍を貸与したり購入して与えるなどしたほか、品行を正し、礼儀を守り、家内の不締りをなくし、野卑に流れることのないように繰り返し訓戒するところがあった。また、藩士とその子弟が「漁に淫し、民毛を蹂躙し、家畜を強奪し、農夫を殴打」することなども禁じている(「御用留」土井家文書)。
写真151 蘭字扁額(杉田成卿)

写真151 蘭字扁額(杉田成卿)

 天保十四年九月には「五倫教諭書」を布達している。その趣旨は、この度の改革が財政改革のみではなく、家中から領内末々の者にいたるまで、「夫々の道を弁え家業をよく勤め、風俗よろしく国もよく治まり、人々を安楽に」過ごさせるためというにあった(「御触留」宮澤秀和家文書)。綱紀の粛正が、単に厳罰をもって臨むのではなく、倫理的、道徳的な面の主張をもっていることが注目されるのである。



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