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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    一 大野藩の天保改革
      人材の登用
 利忠を補佐して改革の中心になったのは、用人を経て天保七年に年寄になり、同十一年には家老に就任した中村重助であった。そして十三年から十四年にかけて、筆頭家老田村又左衛門を初め、重助と同時に家老に任じられていた田村左兵衛、その他年寄・用人・奉行・目付以下多くの役人が更迭されたのである。それは百姓の目にも「重キ御役人」から「軽キ役人」に至るまで退役や隠居が続き、「不首尾の御役人夥敷」くと映じるほどであったという(「公私御用留」野尻源右衛門家文書)。
 天保十四年閏九月の直書では、これまで「政事向并役替昇進等」を大野と江戸で打ち合わせていたため、その遣取りに三、四〇日もかかり、不熟の時はさらに日数を要するなど、能率が悪いうえに機会を失することもあったというので、今後は自分の「存意」はそのまま実行に移すこと、家臣の「評決」を採用しないこともありうると言い切っている。因習に捉われることなく、自分の判断で自由に「人才の挙用」を行い、「膝元の威光」を強化しようとした利忠の強い意欲を示すものである(土井家文書 資7)。

表165 内山兄弟の登用

表165 内山兄弟の登用

 内山七郎右衛門(良休)と隆佐兄弟の登用も、利忠のこのような考えに基づくといってよい。表165によれば、兄弟の出世は、兄の七郎右衛門が銅山用掛頭取、弟の隆佐は作事奉行がきっかけになっていることは明らかで、「万事ヲ指揮」(『柳陰紀事』)した中村重助の下で頭角を現したのである。とくに七郎右衛門は、天保十三年五月勝手方に転じて、その「一向奉行」を仰せ付けられた後辣腕を振るったようで、そのため妬まれたり讒言されたため辞意を洩らすこともあったらしく、利忠が「股肱再興の臣」であるから決して心配におよばない、子孫も永く見捨てることはないと慰撫状を出しているほどである(内山良治家文書 資7)。ただし、兄が大野屋、弟が大野丸で活躍するのは安政二年(一八五五)以降のことである。なお、中村重助は弘化二年(一八四五)七月死去したが、利忠は三日間の鳴物高声停止触を出して功績に応えた。



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