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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    一 大野藩の天保改革
      「更始の令」
 利忠は天保十二年九月に帰国したが、十二月に目付に宛てた四通の「口達」によれば、藩財政の不如意が一向改まらないのみならず、家中の借財まで莫大になり、中には「所持の土蔵并家財等も手放シ、筵の上ニ起臥致」す者もいたという。家中の借財は黙過できないほどになっていたとみられ、前年の三月には、借財は「自分一己」のことであるにもかかわらず、寄り合って不満をいうのは「徒党の筋」「不埒至極」と厳しく申し付けているほどである(「御用留」土井家文書)。
写真150 吉田拙蔵像

写真150 吉田拙蔵像

 このような大野藩の現状を利忠は、奢侈が進んだ結果であり、ために政教は怠弛し、士気も振るわず、藩債は日々に累積している、このままでは上は公務を欠き、下は士気を養いがたいと認識し、「一大革政ノ意ニ決シ」、翌十三年四月二十七日、直書をもって「更始ノ令」を発したと、吉田拙蔵は『柳陰紀事』の中で述べている。
 「更始」とは、旧いものを改め新しく始めるということで、更新とか革新の語と同じ意味である。拙蔵が『柳陰紀事』で用いてからこの時の直書を指すようになったと思われるが、他藩でも藩政改革に当たって出された法令にこの文言を充てている例がみられるので、必ずしも大野藩のこの法令のみを指すものではない。
 この日利忠は家中一統を白書院に集め、すでに致仕していた老臣石川官左衛門と岡島清左衛門の陪席もとくに許し、家老中村重助(輔)をして直書を読み上げさせた。「我等幼年にして家相続いたし」に始まる著名な直書の趣旨は、大略次のとおりである(土井家文書 資7)。
私は幼くして家を相続したので、何も知らず、未熟の身で政治向きに口出ししては却って「国政の害」になると考えたので、初入り後も今までどおり老練の家臣たちに任せてきた。とくに出費多端のおりから、なまじ自分の考えをいうのは「事の妨」げになると思い控えていたが、皆の努力によってなんとか無難に切り抜けてきた。しかし今や藩財政は行き詰まり、どうしようもなくなってしまった。これ程とも思わずそのまま放置してきたのは「我等の過ち」であるから、今後は万端「倹素を旨」とし、土井家を永続させたい存念である。お前たちも「年来過分の借米減給」で困窮ではあろうが何とか凌いでほしい、その代わり自分も「御役の志願」をあきらめよう。「君臣上下」は一体である、お前たち家臣があるから自分も大名たりえ、土井家が続くからお前たちもやっていけるのである、この所を深く理解してほしい。財政難から政務が欠け、不正も生じ、正直者が埋もれているようでもある。政治向きはもちろん私自身の身の処し方に至るまで、気付いたことは何でも申し出てほしい。他見他聞を憚ると思えば封書で差し出してもいいし、直接言いたいことがあれば小姓頭まで申し出れば何時でも会って話を聞こう。お前たち家臣の「真忠の精力」に頼る以外土井家にも大野藩にも未来はないのだ、一同の者、呉々も頼んだぞ。
 三二歳になった利忠の、いわば自立宣言ともいえる内容であるが、拙蔵はこれを聞いた藩士の反応を「皆感泣セサルナシ」(『柳陰紀事』)と伝えている。この直書に始まる一連の改革は、後々「御家御存亡の御改革」と意識されたが、利忠も文久二年隠居に当たっての述懐で、「寅年改革」のことを画期とみなしており、天保改革を仕上げるとともに、以後の諸改革の出発点となるものであった。
 利忠はこの後も矢継ぎ早に直書を発して藩政を主導し始めたが、五月二十一日、後事を中村重助に託して参勤の途に就く。大野発駕はもともと十六日の予定であったが、遅れたのは「前条御大変」すなわち改革に忙殺されたからともいう(「三番御用留」鈴木善左衛門家文書)。六月七日に着府した後も、江戸から続々と直書がもたらされたが、そこで強調されたのは、人事の刷新と勝手方の改革であった。



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