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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    一 大野藩の天保改革
      大野町人の反応
 この国産奨励策に対して、大野の町人は二つの方法で反応した。一つは新規営業の免許を願うことであり、もう一つは既存の商人や職人が株仲間の結成を求めることであった(「諸願留」斎藤寿々子家文書)。
 前者には、官大臣木綿糸仕入商い、木綿繰六呂細工、紅製商い、手製鬢付商い、砥石切出しなどがみられるが、いずれも一定の冥加銀の上納を約し、かつ承認後は「株」にしてほしいといっている。後者には、醤油醸造、畳薄縁、桶屋、大工、釘打立、木挽などがみられ、必ず他所の品物や職人が来ることの差止めを願い、冥加銀の上納を約束している。
 いずれもそれらが「御国益」になること、他所の物より上質でしかも安くできることを強調しているが、とりわけ五番町の三右衛門が願い出た官大臣木綿糸仕入商売願書が注目される。その趣旨は、「町在末々軽キ者の益」にするために、岐阜・尾張・鎌倉辺りまで手を伸ばし、「札ニ而買入れ、金ニ而請取」れば、領内の金銀の廻りもよくなる、とくに女子の働きは現在日に二、三分位だが、官大臣に馴れると一、二匁にもなる、「軽者」には綿道具まで仕入れてやるとよい、「何卒私一軒切り御免」と「類商売」の禁止を願うというものである。品物を「札」すなわち藩札で購入し、販売する時は「金」すなわち正金銀で受け取ろうとしたわけで、いわば「二重」に儲けようというのである。
 天保元年十二月には町方倹約令が改訂された。先の国産奨励策のうち一年限りとされたものを翌年正月から使用することを許した代わりに、改めて次の品々を「急度差留」にしている。
酒器などの贅沢品、許可したもの以外の反物、桶、他所酒、味噌・醤油、紅、鬢付、金銀鼈甲製の櫛・笄・簪、畳、金銀製の品物、他所からの絵師・植木屋・咄師・浄瑠璃語り・三味線弾き
 そして生魚なども高値での商いを禁じ、違反者は厳しく処罰すると申し渡したのである(「倹約筋申渡覚」斎藤寿々子家文書)。
 天保三年五月には、第三章第二節で詳述したように面谷銅山が「御手山」になった。これは国産奨励の最たるものといえようが、同九年三月の江戸城西丸の焼失にあたり、面谷銅山からの出銅を、再建普請の用途に上納することを願い出ていることからもうかがわれるように(大野市歴史民俗資料館文書 資7)、後々藩財政にとって大きな意味をもつようになる。
 ただし、右に述べた国産奨励は直ちには成果を上げたとはいえないようで、豪農商などへ御用金を繰り返し課し、借財の引受けを依頼したほか、町在小前の者からの物品の献納まで要求しているほどである。天保六年春には「米銀・櫛・笄」を、翌年にも「金銀・衣類・小道具」まで上納しており、利忠が「前代未聞」「奇特至極」と「満悦」し「感賞」したと伝えられる(「要用留」野尻源右衛門家文書、「御用留」鈴木善左衛門家文書)。ちなみに同九年の運上銀は、鬢付が七〇匁、醤油が六五匁に過ぎない。



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