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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    二 安政改革と大野屋
      弘化・嘉永期の動き
 大野藩では、天保十三年(一八四二)の「御家御存亡の御改革」に次いで、嘉永末年から安政(一八五四〜六〇)期にも軍制改革、大野屋の設置、北蝦夷地「開拓」、大野丸の建造など、大きな改革が行われた。そこで本項では、まず弘化(一八四四〜四八)から嘉永(一八四八〜五四)期の動きをみた後、軍制改革と大野屋について触れ、北蝦夷地「開拓」と大野丸については、幕府の北方対策とともに項を改めて述べることにする。
 土井利忠は弘化元年四月二十八日の直書で「未だ改革篤と安心の場江ハ至らず」と指摘し(土井家文書 資7)、同三年一月の直書でも、改革が「未だに成就の所へは至り申さず」といっている(土井家文書)。第五章第一節でも述べたように弘化元年には明倫館が完成していたが、嘉永元年一月には改めて文武奨励の直書を下し、厳しい倹約のなかでも文武については手当てを行ってきた、文武は武士の「職分」であり、「真理を会得」するよう家中一統の自覚を促している(土井家文書 資7)。さらに嘉永四年九月十一日の諸役人への直書では、近頃「奢侈の風が増長」し「家中の風儀次第ニ廉恥を失」ってきた、奢侈は困窮を生じ、困窮によって廉恥の風も衰えるものだ、このようなことでは「先年改革以来上下艱苦を忍」んだ甲斐がないではないか、「永続の守法取り調べ申し出」よと、厳しく戒めることがあった(土井家文書)。
 また町在に対しても弘化二年、人々が厳しい改革を誤解して窮屈に思い、そのため「不繁昌(盛)」のように思うのは心得違いである、百姓は「手広ニ耕作」をし、町人は「銘々の商売手広ニ」出精し、城下が繁盛するように心掛けるべきことを説き、併せて禁制品の売買禁止、公事出入の厳正な裁許、さらに金銀の貸借や家屋敷の質入れに「不実不筋」のことのないように令している(「御触留」宮澤秀和家文書)。家中・町在ともに、厳しい改革にようやく倦んできた様子がうかがわれる。



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