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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    二 安政改革と大野屋
      海防と軍制改革
 異国船の出没に対する具体策が講じられたのもこの時期である。異国船への対処方について、寛政七年(一七九五)一月の幕府への届けによれば、西方(西潟)領大樟浦・小樟浦にはなお陣屋や役所は置かれておらず、異国船を発見すると直ちに大野まで注進させ、それから物頭と組の者を派遣するとしており、天保十三年でみても人数は若干増えているものの基本的には変わっていない(「大野領海辺手配覚」土井家文書)。西方領とは、織田村や右の両浦など丹生郡内の一三か村、合わせて四六一五石余の所領を指す。後述するように、これらの浦からも大野丸の水主を出している。
 嘉永三年一月、利忠は「外寇渡来、海岸防禦」(『柳陰紀事』)について布達したあと、二月には織田村に陣屋を置き、内山隆佐を初代の西方代官に任じて「海防ノ事務ヲ幹理」(「内山隆佐履歴」土井家文書)させるとともに、大筒や鉛玉などを送り込んだ(表165)。また「異国イギリスより合戦仕懸」けるという「世上の評判」によって、利忠の西方出陣もありうるとして、古例の調査なども行っている(「諸用留」野尻源右衛門家文書)。
 この時期はまた高島流砲術が導入された時でもあった。大野藩では小形元助を高島秋帆の高弟下曽根金三郎に入門させ砲術を学ばせていたが、弘化二年三月金三郎に請い「口径壱百五拾目玉ノ銅熕(後の野戦砲)」を一個鋳造したといい(『柳陰紀事』)、七月六日に帰国した利忠が八月六日これの打ち試しをしている(「御用留」斎藤寿々子家文書)。また翌三年四月には新田野において五〇発の早打ちを行い、見る者を驚かせたともいう(『柳陰紀事』)。このようなことが評判になり、例えば嘉永元年十月、丸岡藩の荒木次郎大夫と小川継右衛門が元助へ入門しているように(「五番記録」鈴木善左衛門家文書)、他藩からの入門志願者が増えたため、翌二年六月「高島流砲術稽古場世話役」を置き、内山隆佐と小形元助・岡久米次郎(早川弥五左衛門の実弟)をもってこれに充てた。十月十九日には、泉州堺の銃工島谷与吉を鉄砲師として二人扶持と切米九俵で召し抱えている(「御用留」土井家文書)。
 嘉永三年三月十四日、新田野で「蘭法高島流先生小形元助」一門が大筒調練を行った。見物した野尻源右衛門によれば、玉が七町(七六三メートル)も先に落ち、四尺(一メートル二〇センチメートル)四方の穴を開け、土が三間(五メートル四〇センチメートル)四方に飛び散り、見学に来ていた勝山藩士等を驚かせたという(「諸用留」野尻源右衛門家文書)。また元助は砲術の指導のため、請われて福井藩や勝山藩・丸岡藩へ行くことも多く、一〇日から二〇日間も滞在することがあった(「御用留」土井家文書)。
 ペリーが浦賀へ来たのは嘉永六年六月三日である。利忠はその二十五日、神道無念流の剣客斎藤新太郎(弥九郎の子息)を伴って江戸を出発し、七月九日大野に帰った。そして軍制改革に取り掛かるが、その事情を主として『柳陰紀事』によってみることにする。先に述べたように、西洋流は早くに採用されていたが、正式な改正はこの時とされている。
 七月十六日、隆佐に新しく一〇〇石を与えて知行取に昇格させ、「軍師」に任じた。隆佐は「弓槍ノ迂器ヲ廃シ、専ラ歩砲ノ活法ヲ用」いることにしたといわれるが(「内山隆佐略伝」)、二十日には軍制改革の諭達が出された。軍制は「時運変遷、軍器ノ如キ既ニ砲銃等発明ノ利器、陸続世ニ布」く、とくに近年は異国船の来航でいつ何時「火急ノ出張」があるかもしれない、その時期を失してはならないので、「断然決志、時勢ヲ酌ミ」もって「軍制ヲ改正」し、「簡便利用」を主とし、「実益有用」を事とする、というのである。そして二十八日には小形元助が砲術師範に任命されている。
 「西洋流野戦砲」や「西洋流大砲」の稽古では、大量の弾薬を使用しなければならない。そのため慢性的に勝手不如意にある藩士が「自力」で練習するのはむつかしいため、世話役の願いにより藩が弾薬を下付して行わせねばならなかった。それにともない消費量も増えるため、十月には山村宗八郎に命じて人造硝石のことを取り扱わせ(「御用留」土井家文書)、勝山往来道に焔硝焼き小屋も建てられている(「諸用留」野尻源右衛門家文書)。十一月四日には隆佐に大砲の鋳造が命じられ、十四日には「新規出来の大砲」を滞りなく鋳立てたとして、鋳物師与三右衛門に二人扶持が与えられた(「御用留」土井家文書)。



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