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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    二 安政改革と大野屋
      安政元年三月の大調練
 嘉永六年正式に洋式軍制の採用に踏み切った大野藩は、翌安政元年三月五日新田野においてこの「洋陣法」(『柳陰紀事』)の訓練を行った。この演習は大掛かりなもので、朝六時頃鳩門前の広小路に集まり、それから新田野に行き、帰城は夕方の六時頃になったといい、家中は残らず参加し、郷中よりの夫人足二〇〇人を含めて総勢七〇〇人余(鈴木善左衛門家文書「六番記録」では七五〇人前後)、百姓の目には「軍の真似」と映るほどであった(「諸用留」野尻源右衛門家文書)。そのため大野藩は大庄屋両人に命じて、三月二日周辺の鯖江領のほか郡上領と幕府領の大庄屋へ書状を出させ、危険だからたとえ見物に来ても大砲目印の五町(約五四五メートル)四方に立ち入らないよう注意を喚起している(「文通用留」福井大学附属図書館文書)。また当日大庄屋両人は、徒士目付や代官手代の指揮下に入り、「人払」いの役を務めた(「六番記録」)。
 この時の模様は、後の写ながら「新田野調練行列」(土井家文書)という帳面が残されているので、これと「御用留」などによって行列を復元し、洋式軍隊の一端を垣間見ることにしよう。
写真152 大調練行列図(大正頃の構想図)

写真152 大調練行列図(大正頃の構想図)

 まず総人数は利忠から小者まで四九〇人ほど確認しうるが、「医師一統」などともあるので実際はこれよりやや増えるとみてよい。そのほかは馬が一二匹(騎乗八、弾薬駄馬四)、大砲が八門(六人引き二、四人引き一、三人引き五)、弾薬長持一〇棹、玉薬箱六荷などである。
 行列の先頭は「前軍」で、土井家の水車紋を白く染め抜いた旗を掲げた物頭横田権進が進む。その後を若党と槍持を従えて、物頭の内山七郎右衛門と岡十郎助が各々一八人と一七人の鉄砲隊と玉薬箱持一人ずつを率いて続く。次いで「前軍左」と「前軍右」の二隊に別れ、それぞれを大砲隊長田村左兵衛と長岡源大夫が率い、六人引きの大砲二門(六斤熕と三斤熕)と小形元助を含む「熕手」が一二人、弾薬を積んだ駄馬四匹、三人引き大砲二門(二百目砲と百目砲)にその「熕手」八人、三人持の弾薬長持が二棹続く。その後に物頭三宅亘と石川順次郎に率いられる鉄砲隊が一七人ずつと玉薬箱が一荷ずつ、さらに戦士隊長堀三郎左衛門と岡島彦左衛門に率いられ、太鼓役一人ずつを含めて三二人と三三人の「戦士」が続いている。
 次が「御旗本付」の二部隊で、それぞれ三人引きの野戦大砲、「熕手」四人、弾薬長持一棹である。そして大馬標の後に使番堀道之進と「小姓頭兼軍師」の内山隆佐が騎馬で続き、その後を一六人の徒士が固める。この後が利忠のいる本隊である。長刀を先頭に朽葉色の旗、小馬標、小姓組に前後を守られた利忠が騎馬で、さらに挟箱、蓑箱、茶瓶、坊主、沓篭、雨具持と続き、その後を騎馬で目付宮崎八郎次、用人平岡伊織、家老小林元右衛門が従っている。
 この後が「後軍」である。まず物頭岡田主馬と鉄砲隊一七人に玉薬箱一荷、紺色の旗を持った小林貢、さらに物頭佐合吉左衛門と鉄砲隊一七人に玉薬箱一荷が続く。次いで大砲隊長田村勝摩、四人引きの大砲一門(三百目)と「熕手」が四人、弾薬長持一棹、三人引きの野戦大砲一門と「熕手」四人に弾薬長持一棹、そして歩士隊長奧田乙右衛門と田村計之助に率いられた「歩士」がそれぞれ二一人と二二人続き、行列の殿を非番の家老大生仁右衛門が騎馬で務めている。
 部隊の編制は、大砲八門のほかに鉄砲隊が六隊で一〇四人、これに「熕手」三六人や大砲引き三一人、弾薬運びの者などを加えると、鉄砲にかかわる者ほぼ二〇〇人、実に全体の四〇パーセントに上る。旧来の軍事力の中心とみられる「戦士」と「歩士」が合わせて一二二人であるから、明らかに鉄砲隊が軍隊の主力を占めていることが理解されよう。
 行列の長さは、仮に人と人との間を一メートル、馬や長持を二メートルとして概算してみると、優に三〇〇メートルを超えており、当時としては壮観であったであろう。大野近在はもとより、勝山・福井・丸岡の諸藩、さらに加賀大聖寺藩辺りからも見物人が来ており、さすがの野尻源右衛門も「化粧見事」と感服しているのもうなずけることである(「諸用留」野尻源右衛門家文書)。なお、玉は「本玉入」すなわち実弾で、「殿様始め残らず腰兵粮(腰弁当)」であったとも伝える(「六番記録」鈴木善左衛門家文書)。また七日には、命にかかわるので不発弾に注意するようにという、二日と同じような大庄屋の回状が回っている(「文通用留」)。



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