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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    二 安政改革と大野屋
      「鉄砲は於蘭流斗り」
写真153 小銃弾丸鋳造用ヤットコ

写真153 小銃弾丸鋳造用ヤットコ

 このようにして大野藩の西洋流砲術は盛んになっていったが、安政元年四月には隆佐が「砲術引立」ての功で表彰され、鋳物師与三右衛門が「鋳物方出精、筒類并玉等鋳立方巧者」になったとして褒美をもらっている(「御用留」土井家文書)。翌二年六月十四日、利忠は参勤交代の往復に「従前所用ノ弓鑓ヲ除去」し、改めて「爆機ノ手銃六個ヲ携帯」することを許された(『柳陰紀事』)。ついに参勤交代の出立ちにまで「西洋流」が導入されたのである。十一月には、大庄屋の倅など三人に「砲術稽古」が仰せ付けられ、扶持を与えられたり、帯刀や高足を免許されたりしている(「六番記録」)。
 大野藩の噂は諸国へ広がったようである。例えば安政三年、丹波の十倉鴻亭や丹後田辺藩士が、大野藩の「御改革并当時西洋学并砲術調練等御開ケ之御高評」を聞き付けて、後に述べる大坂大野屋へ七郎右衛門を訪ねて来て懇談しており、鴻亭などはその後大野にも来て一〇日余り逗留したという(「大坂産物用場発端」内山良治家文書)。
 このような状況を野尻源右衛門は、明倫館に「蘭大先生」伊藤慎蔵が来たこともあり(第五章第三節)、これまで流行っていた刀術・鑓・弓・鉄砲(津田流、火縄付)のほか棒術・柔術にいたるまで、いずれの師範家も廃められて、剣術は内山介輔(七郎右衛門の養子)の神道無念流、砲術は小形元助の「於蘭流」(高島流)のみになってしまった。また鉄砲の値段が三両から七ないし八両に値上がりしたこと、さらに大野藩のように西洋流が中心になったところは珍しく、勝山藩や福井・鯖江・丸岡・大聖寺などの諸藩は西洋流と古流が打ち交じり、加賀藩は古流ばかりの由と伝えている(「諸用留」野尻源右衛門家文書)。
 しかしながら、ことは順調に運んだばかりではなかった。安政二年八月十九日の直書で利忠は、一昨年「軍制改革」を申し付け、勝手難渋ながらも追々新規に大砲や小銃の鋳造を申し付けたところであるが、家臣の中には「一己不執心のみならず、彼是批判」する者もいるとのことだ、これまでは注意するくらいで我慢してきたが、今後は家柄にかかわりなく格外の減知減給を申し付け、場合によっては容赦なく永の暇を遣わすこともあろう、またいくら身分は低くてもその人の「器量(能力)」によっては抜擢もしよう、ともかく「偏執の議論を挟み、私に批判」するのは、事の妨げになって「不忠の至り、士道に似合わざる事」であると、厳しい叱責を加えている。おそらく「古流」といわれる人々、すなわち伝統的な武芸の側からの反発が少なくなかったのであろう。



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