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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    二 安政改革と大野屋
      大野屋の構想
写真154 内山七郎右衛門

写真154 内山七郎右衛門

 次に大野屋について、主として「大坂産物用場発端」(内山良治家文書)と「御用留」(土井家文書)によって述べることにする。大野屋とは、大野藩が経営する「商店」のことである。ただし呼称は、史料上では必ずしも一定していない。内山隆佐は箱館から兄七郎右衛門へ宛てた手紙に「店」と書いているが(内山良治家文書 資7)、右の史料のように「(大坂産物)用場」のほか「用場店方」「(大野産物)用場」など「用場」ということもあり、また箱館の大野屋を指して「箱館商館」(「内山隆佐手留」内山良治家文書)の語もみられる。本書では大野屋を用い、必要に応じて地名を冠することにする。
 まずどのような理由で大野屋が構想されたか。「大坂産物用場発端」は次のようにいっており、現状を正確に把握し、しっかりした方策を持っていたことがうかがわれる。
大野藩にはいままで問屋がなかったため、他所他国へ売り出す諸産物は、商人個々の才覚で仲買いに渡しそれぞれ売り捌いてきた。大体福井や三国、あるいは近江や加賀へ販売していたが、「嵩立候品類」は大坂へ出さなければ利潤が薄いため、海陸運送して売ってきた。しかし何分遠いため価格の変動による見込み違いも生じ、短時日の滞坂ではとても引き合わない。かといって預けておいて売ってもらっても古来と違い売り主に都合良く行かず、時には揉め事の起きることもなくはなかった。このままでは「商方機密も相外シ」「国産の位卑ク」なり、結局「国益」が薄くなる。そこで近年色々考えて「大坂表ニ而産物売捌き方」を開き、ここに国産類を預かっておいて時機と相場を睨んで売り捌けば、「出格の国益」なるというのが「御深慮の発端」であった。
一方大坂には諸大名が蔵屋敷を持っているが、「米金融通」のためであり、留守居その他の家臣も多く常駐し、屋敷の維持費なども少なくないと聞いている。しかして我が藩の場合は、調達金を算段するためではなく、従来の「国産不便利」をなくするのが目的だから、他藩の蔵屋敷とは性格を異にするのである。
 すなわち大野屋は、年貢米の換金を主務とするような蔵屋敷としてではなく、国産を売り捌いて国益を揚げるという、文字通り藩営の「商店」として構想された。すなわち、藩や藩士の立場を超えた、商店・商人としての活動が基本的性格とされるのである。
 安政元年六月一日七郎右衛門は国産用掛に任じられ、七月には「御用繁多」という理由で主役の番方を免じられてこれに集中することになった。九月には勝手掛の笹島杢右衛門が札場役に加えられた。この杢右衛門はこの時六五歳、前年の嘉永六年十二月十二日、在方から「不筋の音物」を受け取った廉で「差控」になり、二十一日許されたばかりであった。能力を認められていたのであろう。七月二十六日、七郎右衛門と杢右衛門は「内用」につき大坂へ出立している。二人は十月十七日に大坂を発って二十四日に帰国した。具体的な用務の内容はわからないが、大坂大野屋の開設にもかかわっていたことは間違いないであろう。



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