かくて翌安政二年四月十一日、七郎右衛門のほか杢右衛門と吉村勝蔵に上方筋出張の命が下り、三人は十八日に出発した。二十二日伏見に着き、二十三日淀川を船で下って夕方には大坂に到着、御用達大和屋弥三郎方へ止宿した。この後開店に至るまでの経緯は、大野屋が「武士の商店」であることから生じる問題を含めて、おそらく他所の大野屋とも共通する部分が多いと思われるので、やや詳しくみておくことにしよう。
まず拠点とするべき空き屋敷を物色すると、平野屋喜兵衛(喜三郎ともいう)なる者の屋敷が見つかった。東隣は尾張屋庄左衛門、西隣は銭屋宗兵衛であった。間口四間で三尺の路地があり、奥行は二〇間、間取りは座敷八畳、次の間が四畳半と三畳、店の間が八畳ばかり、二階も付いていた。裏には借家が二軒分、その奥に二四畳敷くらいの土蔵もあった。代金は平野屋の言値が銀二〇貫匁、他に「付物」の代が四貫匁、合わせて二四貫匁とのことであったが、七郎右衛門たちが出せるのは一七貫匁が限度であることとし、弥三郎を仲立ちとして交渉に入った。弥三郎の尽力もあって、居屋敷代一七貫匁、付属物代二貫五〇〇匁、合わせて一九貫五〇〇匁、その他一〇貫匁について五〇〇匁出銀する「歩一」や、町振舞いのほか礼銀などが一貫五〇〇匁、総計二一貫匁を大野藩が負担することで合意した。七郎右衛門も「町義不案内」であるからと承知して契約が成立したのである。
ところがここにひとつの問題があった。家の「名前主」つまり名義人をどうするかということである。国元から寺送証文や村送証文を取り寄せるのは面倒であるし、「町人と申す家持」になるのは「町義」にもかかわり、出費も少なくない。結局知恵者の助言で町内の者から買主を立て、その借家の名目になる方が手数もかからないということになった。大和屋弥三郎には差支えがあったので、町内で「相応ニ致居」る羽山屋利兵衛(葉山屋理兵衛とも書く)を買主に頼み、同人から家質証文を取ることに一決した。五月二日のことであったが、節句前で一同忙しくて会所へ集まることができないうえ、「名前人」も決まらず、寺請状も調わないのでしばらく掃除などをして過ごすことにした。 |