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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    二 安政改革と大野屋
      「大坂産物用場」
 かくて翌安政二年四月十一日、七郎右衛門のほか杢右衛門と吉村勝蔵に上方筋出張の命が下り、三人は十八日に出発した。二十二日伏見に着き、二十三日淀川を船で下って夕方には大坂に到着、御用達大和屋弥三郎方へ止宿した。この後開店に至るまでの経緯は、大野屋が「武士の商店」であることから生じる問題を含めて、おそらく他所の大野屋とも共通する部分が多いと思われるので、やや詳しくみておくことにしよう。
 まず拠点とするべき空き屋敷を物色すると、平野屋喜兵衛(喜三郎ともいう)なる者の屋敷が見つかった。東隣は尾張屋庄左衛門、西隣は銭屋宗兵衛であった。間口四間で三尺の路地があり、奥行は二〇間、間取りは座敷八畳、次の間が四畳半と三畳、店の間が八畳ばかり、二階も付いていた。裏には借家が二軒分、その奥に二四畳敷くらいの土蔵もあった。代金は平野屋の言値が銀二〇貫匁、他に「付物」の代が四貫匁、合わせて二四貫匁とのことであったが、七郎右衛門たちが出せるのは一七貫匁が限度であることとし、弥三郎を仲立ちとして交渉に入った。弥三郎の尽力もあって、居屋敷代一七貫匁、付属物代二貫五〇〇匁、合わせて一九貫五〇〇匁、その他一〇貫匁について五〇〇匁出銀する「歩一」や、町振舞いのほか礼銀などが一貫五〇〇匁、総計二一貫匁を大野藩が負担することで合意した。七郎右衛門も「町義不案内」であるからと承知して契約が成立したのである。
 ところがここにひとつの問題があった。家の「名前主」つまり名義人をどうするかということである。国元から寺送証文や村送証文を取り寄せるのは面倒であるし、「町人と申す家持」になるのは「町義」にもかかわり、出費も少なくない。結局知恵者の助言で町内の者から買主を立て、その借家の名目になる方が手数もかからないということになった。大和屋弥三郎には差支えがあったので、町内で「相応ニ致居」る羽山屋利兵衛(葉山屋理兵衛とも書く)を買主に頼み、同人から家質証文を取ることに一決した。五月二日のことであったが、節句前で一同忙しくて会所へ集まることができないうえ、「名前人」も決まらず、寺請状も調わないのでしばらく掃除などをして過ごすことにした。

(準備中)

写真155 大野屋七兵衛の宗旨手形

 五月八日、買値が大金なので「相場違」いによる差額が「過分」になるため、両替屋へ色々問い合せて金銀比価を細かく検討したうえで、銀二一貫匁分として金三〇七両と永九九文二分七厘を支払った。九日に新宅へ引越し、奉書紬を一反持って町年寄と羽山屋利兵衛方へ挨拶に行っている。そして名義人は、大野から連れてきた者を仮に充てておくことも考えられたが、たびたび替わるのも如何かと思われ、かねて面谷銅山を通じて関係があり、当時「日の出の家柄」といわれた布屋理兵衛の下人孫兵衛を「大野屋七兵衛」と改名させたことにしたのであった。このようにして二十二日、写真155にみられるような四月付の寺請状を布屋が持参し、弥三郎から町代に提出された。ここに実体はまったくないにもかかわらず、公式には東本願寺門徒の「北久太郎町壱丁目羽山屋利兵衛借屋 大野屋七兵衛」と「下人久兵衛」が誕生したのである。
 かくして大坂大野屋が開店した。七郎右衛門は後を吉村勝蔵と、大野の商人で店を畳んで大坂にきた塩屋宗五郎に任せて、五月二十五日夕方船で大坂を発ち、晦日に大野に帰った。



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