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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    二 安政改革と大野屋
      大坂大野屋の決算
 安政二年八月二十六日、内山七郎右衛門と笹島杢右衛門、それに勝手方支配島田菅次郎に大坂行きの命が下った。一行は二十九日に大野を立ち、七郎右衛門は杢右衛門を伴って信楽を廻って、菅次郎は直接大坂に向かった。大坂へ着いた七郎右衛門は、五月以来の勝蔵への「渡金并用場入金」と、大野で為替を取り組み、受け取った金子との決算を行った。これを第一回とし、以後三回の決算が知られる。収支の実態も利益もわかるわけではないが、四回の決算を通じて、大坂大野屋の運用の一端をうかがってみよう。なお決算は、第三回目を除き七郎右衛門が大坂で行っている。
 第一回の決算は、収入に相当する金額が二八二一両(両未満切捨て、以下同じ)、内訳は吉村勝蔵への渡金一六七両のほか、布屋理兵衛と鴻池栄次郎の調達金二〇〇〇両、大野特産の奉書紬、黄柏、黄蓮などや「海上砲術全書」の代などである。支出相当額は、銅山方や大野商人の為替、大野行き便代、駄賃など締めて二一八九両となる。差額の六三一両が「残金」すなわちいわゆる「現金有高」であるが、利益というわけではない。この残金のうちの六〇〇両が、「用場備金」として島田菅次郎に渡され元入金(運転資金)になり、残る三一両を七郎右衛門が受け取っている。
 第二回目は安政三年三月までの収支について四月の初めに行われた。収入に相当する「用場渡金并大野ニ而買上候品物代、大坂ニ而売物代」は、菅次郎に渡した六〇〇両のほか、「海上砲術全書」、蚊帳、油、黄柏、黄蓮、硝石、奉書紬などの代合わせて二五四七両、支出に相当する「大野ニ而請取候為替金并品物代」が、諸為替のほか「和蘭文典」、染藍など一七七二両、差引き「残金」が七七四両で、今度は吉村勝蔵に渡されている。
 第三回目は同じ年の九月であった。七郎右衛門は都合で出坂できなかったので、島田菅次郎を派遣して吉村勝蔵の「請払決算」について行った。勝蔵が持ち帰った決算書によれば、収入相当分は三月の残金七七四両のほか、銅山方よりの為替一九〇〇両、布屋・住友の調達分一〇〇〇両、奉書紬、「海上砲術全書」、ゲベール銃など四六七一両、支出相当分は江戸送り一〇〇〇両、緒方洪庵への謝金三〇両、銅山方狸皮四〇〇枚、鉄砲方用の吹子、紺屋用の明礬代など二二六五両、差引き「残金」二四〇六両であり、それは島田菅次郎に渡された。
 第四回目は安政三年九月から四年三月までについて行われた。収入相当分は前回の残金二四〇六両のほか、住友や布屋などの調達分一三〇〇両、兵庫の北風庄右衛門からの米代六四八両、奉書紬五七九両など五七〇六両、支出相当分が諸為替のほか江戸送金七〇〇両など四〇五五両、「残金」が一六五一両であった。右の北風庄右衛門は兵庫の有名な廻船問屋であるが、安政四年二月二十九日に米一〇〇〇俵を積んだ「初入船」があり、それから取引きが始まったようである。
 大坂大野屋は、「残金」からみれば順調に回転していたといえるのであろう。また大野屋は、面谷銅山の産銅や右にみたような国産の販売、豪商からの調達などを主務としたが、上方筋の情報を国元に送るほか、大坂へ遊学する青年たちの宿としても利用された。



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