しかし一方には大野郡中野村の花倉家の寡婦智鏡尼のような考え方の女性も存在した。彼女は夫亡きあと三〇年余にわたって女手一つで家を守り子供を育てた。彼女は「読書何ニても人なミ(並)の事に事かゝぬ人は諸人是をうやま(敬)い……よミ書手のうこ(動)かぬたしな(嗜)ミのなき人は大はじ(恥)」(「御遺訓書添」花倉家文書)をかくことになると述べる。ここには『女大学』の教えとはまったく逆に、女性の自立の必要性が説かれている。しかしこういった女性は例外であり、男性も多くは『女大学』に描かれた女性を善としていた。
内田家は今立郡岩本村にあって紙を主とした商業活動を行った在郷商人で、当家には二点の家訓が残されている(表156)。宝永七年(一七一〇)の史料の八か条目に、妻たる者の心得と女性観の一端がかなりの字数を割いて披瀝されており、男からみた望ましい女性観がうかがえる。
まず大前提として妻は家の道具であると規定する。そのうえで、たとえ姿形が良くても所帯持ちが悪い女を妻にもつべきではなく、たとえ容貌が醜くてもよいから、所帯の切盛りが上手で、愛嬌があり、利口な女性を妻に迎えるべきであるとする。とかく女は浅はかなものであり、将来起こるであろう結果まで思い描くことができず、ちょっとしたきっかけで行動しがちであるので、誘惑に惑わされることない堅固な志をもつように仕向け、極楽往生を遂げさせたいとしている。ここには女は愚かな存在であるとの抜きがたい先入観がうかがえる。それゆえ、女は夫の指導によりその家の家風に合うよう再教育を施される必要があること、女はあくまでも家業を営むうえでの一歯車たるべき存在であることが強調されている。
次に延享二年(一七四五)の家訓は一五条からなり、四条・九条・一〇条が女性に関するものである。四条は妻の行く末が心配で子供たちにその養育の心構えを諭したもので、夫亡きあとも心おきなく暮せらるようにとの細かい心配りをしている。九条は妻くりにいい残したもので、年寄として一番大事なことは極楽往生を遂げることであるから、ひたすらに念仏を唱えて後生を送れとしている。一〇条は倅の妻に託した内容で、世間では嫁姑の仲は悪いことが当たり前のようにいわれるが、お互い仲良く暮らし姑への孝行に励むように、夫はもちろん義理の弟へも随分心配りをするように、お互い心を開き気を許しあって万事和やかに末長く家を守っていってほしいとある。嫁姑の対立を避け夫婦の協力第一が説かれていて、先の書置とは違った女性観が示されている。 |