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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    二 農業経営の変容
      小畑村の農業経営
 持高の移動による階層的分化は、農業経営の大小差や無高化をもたらすとともに、外字作・請作関係も形成させる。幕末期の経営規模がわかる史料があるので、それによって考察しよう。
 まず山村の事例として、足羽川上流の幕府領今立郡小畑村について、弘化元年(一八四四)の幕府による経営調査史料(下書)がある。それを耕作規模別階層にまとめて表41に示した。それによりながら補足を加えて説明しよう。小畑村は村高九六石余で、高持百姓二七戸、無高(水呑)二五戸が生活していた。村高の約四分の三は高持百姓が自作していたが、残りは請外字しされていた。最も大きい農家は高一〇石余の土地を、家族労働力のほかに下男・下女五人を雇って耕作しており、手作高六石余・七石余および四石余の一人も下男・下女を雇っていた。高持二七戸中、九戸が持高の一部を外字す地主で、三戸は請作もある自小作であったが、この自小作の一人当たり耕作高は五斗七升余から六斗六升余で、「農業之透之渡世」はなかった。以上の二石以上層がこの村の六三・二パーセントの土地を耕しており、一戸を除き田畑の耕作を専業とする主力経営層であった。これに対して高持の二石未満層は自作であるが、ほとんどが余業に携わっていた(余業の種類については後掲表44)。
 無高層は、全員が屋敷地を借りており、地主の名もわかる。田畑も五戸(表の「無作」)を除いてわずかでも請作しているが、その地主はすべて屋敷地の貸主である。ただ四人だけは、その上で他の地主からも小作していた。無作については、「壮年」労働力が一人とか、老人だけとか、「後家」の家である。無高層の一人当たり耕作高の最高は七斗五升であるが、その家も駄賃持、蓬取、苧外字(綛)の余業があるので、小作料の支出も考慮すると余業は欠かせないもので、多くはむしろ農業が余業的であったと思われる。そして小作高一石未満になると、一〇戸中、六戸から九人が奉公に出ていることが特徴である。無高層の家族数は七人が最も多く三戸あり、うち一戸は壮年五人中三人を、一戸は四人中二人を一季奉公に出しており、残りの一戸は小作高が最も多く(二石五斗)炭焼きなどをして暮らしていた。
 以上のように、小畑村は山村のため耕作規模は総じて零細で、生計を山稼ぎに頼る部分が多かったと思われるが、史料の上では把握できない。その限りで言えば、大体耕作高二石以上は田畑耕作だけで生計を保ち、高持の一石未満層と無高小作人のほとんどの家が農間余業に携わっていたことがわかる。とくに無高小作人の一石未満はその零細経営に見合う程度を超える労働力を奉公人として放出することで成り立っていた。無作は農業を営む上で家族労働力構成に無理のある家であるようにみえる。したがって、この村の地主・小作関係は、山稼ぎで生活する無高(水呑)の人々に屋敷、田畑を貸し、家ごとの家族構成などの事情に応じてその多少を調整して、互いに生活が成り立つように計らう機能を果たしていたと推測できる。そのため、おそらく外字作には恩恵的な要素もともなっていたであろう。この村の「水呑」はおそらく「地借」と呼ばれている人々であった。たぶん「日おい」「日手間」と呼ばれた労役を地主へ提供し、その庇護下にあったであろう。



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