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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    二 農業経営の変容
      天保期の持高移動
 幕末期の天保(一八三〇〜四四)年中の持高の移動・分化の事例として足羽郡岩倉村の史料をみよう。天保元年の「岩倉村諸事定通規形帳」(松嶋一男家文書)は庄屋交代に際して申送りのために作られた帳面で、天保元年から八年までの村人の持高移動の一々が記されている。その内容を概括的に述べると、岩倉村の村高は三二〇石三斗四升四合で、ほかに「御蔵所高」四八石四斗一合があった。百姓は一九人であるが、天保の前半八年間で一一人の百姓が合わせて二一回の土地売買・質入れを行っている。売買にかかわらなかったのは八人である。
 こうした土地移動の結果、総じて大高持がさらに持高を増し、小高持はさらに持高を減らした。持高を増やした者は四人で、天保元年当時の持高一六五石弱一人、三七石余一人、一八石余一人、九石余一人である。一六五石弱の高持は天保五年に一九〇石余になり、翌六年に分家を出し、持高四四石余を分与した。分家はその時点で村で二番目の高持になったのであるが、その後、さらに高一七石余を分与され、また買得もあって七三石余の大百姓になっている。

表40 天保期足羽郡岩倉村持高構成の変化

表40 天保期足羽郡岩倉村持高構成の変化

 他方で、持高を減らしたのは右の本家の百姓を除くと六人で、一九石余と五石余であった二人はまだ持高を残しているが、八石余、六石弱、二石余の三人は無高になってしまい、いま一人は八斗余の高を全部質入れしている。また売買関係のなかった八人は、一人は持高九斗弱であるが、他は七石以上、三〇石余までの中位の高持百姓であった。そしてその結果、表40のような変化が生じたのである。
 天保期八年間の岩倉村の売買件数は多いとみるべきであろう。その間に凶作の年があったせいもあろうが、一定の年に集中して売買が行われているのではない。幕末にもなると土地取引市場がそれなりに活発化していることを物語っていると受けとれる。



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