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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    二 農業経営の変容
      土地の質入れ・売買
 右のような持高の移動は、分家の際や潰百姓の上げ高などでも生じたが、大部分は土地の質流れや売買を通じて行われた。
 周知のように幕府令では田畑の売買は禁止されており、質地は認められていた。もっとも質入れの場合は質取主へ渡す、利息を付けない(付けると書入れになる)、期限は一〇年以内、倍金質でないことなどの制限があり、切畝歩(一筆の土地を分割して質入れ)、頼納(質取主が利用するのに質入主が年貢諸役を納める)、半頼納(年貢は質取主、諸役は質入主が負担する)、残地(質地の半分を質入主に小作させて年貢諸役を全部負担させる)は禁止されていた。

表39 坂井郡野中村の小島家所蔵土地売券の集計

表39 坂井郡野中村の小島家所蔵土地売券の集計
 しかし、これらは守られないこともあった。越前でも、永代売は表39のようにいくつかの例があり、頼納の例もある。例えば享保五年、大野郡牛ケ谷村の者が高二石五斗を一〇年季で大野屋八兵衛へ質入れして代米二六俵を受け取ったが、その高は「村なミ(並)ニ御納所少屋く(諸役)」を「我等方ニ而急度相勤可申候」と証文に記しており(玉木右衛門家文書)、他家の文書中にも同様の事例が散見される。また、丹生郡上大虫村の例では、年季質入れや借米銀の書入れに際して、質取主は高役だけを勤め、他の諸役や未進分懸り物は質入主が勤めるものがむしろ一般的であった(青山五平家文書)。これは半頼納ないしそれに準ずる契約であるが、この場合、借用証文に利息の記載がみられない。
 さて、表39は坂井郡の組頭・大庄屋を勤めた小島五左衛門家の土地関係の売券を整理して示したものである(小島武郎家文書)。十八世紀後半以降の証文の残存が少ないのが難であるが、違法な永代売がいくらかあるほかは、書入れ(借用)と本物返(年季売)の方法が多かった。「書入れ+本物返」は利息つきで借米銀した上で、期限に返済できない場合は、その後は年季に切り替える旨を本文中に記したものである。なお、他家の事例は掲示を省くが、管見の限りでは永代売がもっと多い例、十九世紀後期に永代売が増える例、書入れと本物返の比率が違う例などがあって、一様ではないようである。
 また、表39では時期的変化も、統計的に不十分なためか明瞭ではない。そこで、これらのうち、村借、すなわち村として質入れするか、または村役人として自分の土地を質入れする例を数えてみると表の[_]中のようになる。小島家は地主であるとともに組頭・大庄屋役であるためか、他家より村借の事例が多いが、時期ごとの証文数合計に対する比率は十八世紀中までは約四割を占めている。もっとも十八世紀後半は事例が少なくて確言できない。十九世紀に入っての一件は、文化九年に村の御宮の修復不足銀を短期間借りたもので、それまでの年貢代に差し支えての借米銀とは異質である。
 村借は書入れ、本物返の方法でも行われるが、「書入れ+本物返」方式に占める村借の比率がとくに高いことが注意される。村・村役人としての公的な性格にかかわって質物請戻しの確実さを図ったためであろうか。また、百姓が年貢を納められない時に持高を村へ渡し、村に処理してもらう「高上げ」という方法がある。表が繁雑になるので欄を設けなかったが、全部で一二件が知られ、その最も遅い事例は宝永元年(一七〇四)である。
 村借(および高上げ)が遅くとも十九世紀にはみられなくなることは、村共同体が一体のものでなくなってきて、相互扶助機能が働かなくなったことを意味するであろう。村が大高持と小高持・無高とに階層的に分化してゆくにつれ、(多くは大高持が村役人を勤めはするが)手作地主と奉公人、寄生地主と小作人との保護・被保護ないし対立関係へ移行していくとみることができる。



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