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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    二 農業経営の変容
      持高の階層分化
 村の百姓それぞれの持高は一般に近世の最初から大小の差があったが、近世を通じてさらに大小差が開く動きをする。手作りできる限度以上に高を集積した者は、その分を外字作(小作)に出して地主化し、持高を減らした者は小作人化したり、他の稼ぎに頼ることになる。こうして近世中・後期にもなると、自作農のほかに地主・小作関係が広く展開してくるのである。

表37 敦賀郡田尻村の持高構成の推移

表37 敦賀郡田尻村の持高構成の推移

 そこでまず、近世前期の持高構成を敦賀郡田尻村を例にとってみると表37のごとくである。この表から読みとれる主な点は近世前期の寛永十四年(一六三七)には持高二〇石未満から五石以上の中位の百姓が多かったが、天和二年(一六八二)までに村の家数が倍増するとともに持高一〇石未満から一石以上の層が多くなり、一石未満の百姓もいるようになっている。村高にほとんど変化はないから、農業経営の規模を小さくして、より多くの百姓(経営体)が住むようになったのである。
 こうした傾向は若越に限らず日本の他地域でも一般的にみられたことである。田尻村では確かめられないが、中世からつながる初期の土豪的な地主経営が次第に解体ないし変質の方向をとり、分家を出したり、隷属性の強い下人・奉公人が独立するなどによって小規模な農業経営が自立するようになったと考えられている。もっとも、経営が小規模でも成り立つには、人一倍勤勉に働き、倹約に努めて少しでも生産を増やして余った収穫を売り、また出奉公とか賃稼ぎにも出て貯えをつくり、それで干鰯・油粕などの効目の高い肥料を買い、新式の農具も調えてさらに生産を向上させようとする粒々辛苦の農民の姿があったはずである。それによって近世の農業は多肥化・集約化の方向へ発展し、単婚家族で耕作する小農民が一般的になると説明される。そして、この変化には農民の生産と生活に貨幣経済が入り込むこともともなっていた。
 次に、近世中期から後期への持高階層構成の変化を坂井郡高塚村を例としてみよう。表38から指摘できる主な点は、持高の大小差は十八世紀前期から上下にさらに広まることと、延享四年(一七四七)を例外として家数も増えることである。
 持高の分化について言えば、正徳四年(一七一四)に持高六九石余と五五石余の大百姓が二人いたが、二人とも持高を増やして延享四年には一〇〇石以上になっている。その後一人はさらに持高を集めて寛政十年(一七九八)に一五一石余、文化九年(一八一二)に一六九石余、文政二年(一八一九)には一八二石余の大高持になっている。この村には金津町などの越石があったが、不明の寛政十年以降を居村百姓持高合計と村高の差で推定すると、文化九年は村高より五五石弱少ないが寛政・文政度は越石はないようである。したがって大略は村高の増加と越石の買戻しが持高集積の要因でもあったろうが、同時に村内の百姓からも高を集めていたはずである。いま仮に五〇石未満二〇石以上層と二〇石未満層に分けて比べると、前者は正徳四年の八人が享保五年(一七二〇)に四人に減り、以後も二人から四人である。後者は正徳期の一二人が享保期に一八人に増えたあと延享期にいったんは減るが寛政期以降は一九人から二〇人に戻っている。総じて十八世紀前期に上下への階層分化が急速に進み、その後もさらに進んだといえる。
 家数は高持・無高(「地借」)ともに十八世紀の初頭に増えるが、その後は停滞的である。しかし村によっては家数の上限を決めて増加を抑えることもあるので、村の人口をみると、正徳四年一三三人が享保五年一一六人、延享四年一一八人と減少を示したあと、寛政十年一六八人、文化九年一七五人、文政二年一七六人と大きく増加していることがわかる。すなわち十八世紀の後半の間に、この村は二割から三割方も多くの人口を養えるようになったと考えることができるのである。
表38 坂井郡高塚村の持高別階層構成の推移

表38 坂井郡高塚村の持高別階層構成の推移

 次に、近世中期から後期への持高階層構成の変化を坂井郡高塚村を例としてみよう。表38から指摘できる主な点は、持高の大小差は十八世紀前期から上下にさらに広まることと、延享四年(一七四七)を例外として家数も増えることである。
 持高の分化について言えば、正徳四年(一七一四)に持高六九石余と五五石余の大百姓が二人いたが、二人とも持高を増やして延享四年には一〇〇石以上になっている。その後一人はさらに持高を集めて寛政十年(一七九八)に一五一石余、文化九年(一八一二)に一六九石余、文政二年(一八一九)には一八二石余の大高持になっている。この村には金津町などの越石があったが、不明の寛政十年以降を居村百姓持高合計と村高の差で推定すると、文化九年は村高より五五石弱少ないが寛政・文政度は越石はないようである。したがって大略は村高の増加と越石の買戻しが持高集積の要因でもあったろうが、同時に村内の百姓からも高を集めていたはずである。いま仮に五〇石未満二〇石以上層と二〇石未満層に分けて比べると、前者は正徳四年の八人が享保五年(一七二〇)に四人に減り、以後も二人から四人である。後者は正徳期の一二人が享保期に一八人に増えたあと延享期にいったんは減るが寛政期以降は一九人から二〇人に戻っている。総じて十八世紀前期に上下への階層分化が急速に進み、その後もさらに進んだといえる。
 家数は高持・無高(「地借」)ともに十八世紀の初頭に増えるが、その後は停滞的である。しかし村によっては家数の上限を決めて増加を抑えることもあるので、村の人口をみると、正徳四年一三三人が享保五年一一六人、延享四年一一八人と減少を示したあと、寛政十年一六八人、文化九年一七五人、文政二年一七六人と大きく増加していることがわかる。すなわち十八世紀の後半の間に、この村は二割から三割方も多くの人口を養えるようになったと考えることができるのである。



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