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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    二 農業経営の変容
      今井村の地主と小作
 次に、さらに請外字関係が進んだ事例をあげよう。鯖江藩領大野郡今井村は、大野盆地の南端にある村で、天保十三年にやはり領主の経営調査に応じて帳面を作成したが、その下書帳が残っている(山田三郎兵衛家文書 資7)。当時の村高は引高を除いて四六一石八斗四升九合であるが、帳尻の集計はされていない。また、この帳面では「受作」が石高ではなく外字米高を示すと思われる俵数で記されているので、持高・外字高と比較できず、各戸の耕作高を確定できない。そこで持高の規模を基準として階層構成をみると表42のごとくであり、地主・小作・無作の三階層がはっきりしていることがわかる。すなわち、持高二〇石以上層は持高の半分余りを外字し、残りを手作りする地主自作ないし自作地主である。二〇石未満層の外字高二石は寺が七石余の持高の一部を外字しているもので特別の例といえる。持高二〇石以上層四軒のうち、最大高持の三郎兵衛は持高一七二石弱で七一石余を四人の家族労働力と七人の奉公人で「作配」(耕作)しており、二番目の持高一二七石余の農民も他村に越石を持ち六七石余をやはり家族四人、奉公人七人で作配している。この二軒がとくに大きい経営で、三番目は四〇石余、四番目は一八石余を奉公人も雇って作配している。そして五番目は持高一三石余で、この一軒だけは自分の持高だけを自作している。六番目以下については、持高八石余、七石余が三軒だけで、他は三石未満の一四軒である。すなわち、この村の持高階層は中規模層が少なく、上下に大きく分化した状態になっており、そして百姓数より多くの水呑層がいる。

表42 天保13年(1842)大野郡今井村の持高規模別階層構成

表42 天保13年(1842)大野郡今井村の持高規模別階層構成

 他村からの越石はすべて村内へ外字されており、外字作率は四八・八パーセントと高い。これを持高九石未満の百姓および水呑層が請作している(最大は米一二俵余)のであるが、持高五升の一軒と水呑八軒は請作がない。前者は一人暮らしの男が江戸へ出奉公しており、無人の家である。後者の内、一軒は一人を江戸へ奉公に出して女一人・子供二人で暮らしており、他の七軒は家族労働力を残していない家である。つまり、労働力は奉公か日雇に出ていて、家には病人か幼少の者がいるだけの家、あるいは全員出奉公で無人の家である。
 こうして入奉公・出奉公の関係も、零細高持、水呑・小作からの出奉公も含めて、階層差がはっきりしている。すなわち、天保期の今井村は地主と小作・出奉公(貧農)の両極への分解がかなり進んだ状態にあった。しかし、地主手作の大経営も存在しており、地主はそれを縮小ないし放棄して小作人に寄生しきるまでにはなっていなかったこともわかる。



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