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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    三 農間余業の展開
      神当部村の特有農産物
 次に、生産量のわかる例をあげよう。大野郡神当部村は味見川の上流にある山村であるが、明治七年に調査した各戸の米その他の物産品がわかるので、米の生産の多寡で階層区分し、雑穀類を除き、いわゆる特有農産物の生産状況をみるために表43を作成した。下書帳なので帳面の合計と合わないが小差である。この村の生産状況で指摘したい一つは、無作は別として農業経営規模(ここでは米生産量)の大小によって、生産する特有農産物に共通のものが多いものの、中にはそうでないものがあることである。苧や苧外字はほとんどの農家が生産しており、苧を生産しないのは一軒、苧外字を生産しないのは四軒で、いずれも米生産量五俵未満層である。また楮子も一軒が生産しないだけである。
表43 明治7年(1874)大野郡神当部村の特有農産物量

表43 明治7年(1874)大野郡神当部村の特有農産物量


表44 弘化元年(1844)小畑村の透渡世・手励

表44 弘化元年(1844)小畑村の透渡世・手励

 桑は全戸で生産しているが、うち七軒は繭を生産していない。桑葉を卸すか売るかしているのであろう。そして、繭と生糸の生産は分化しているようである。養蚕も生糸もする家は四軒だけで、他はいずれか一方だけである。それを階層別にみると、三〇俵以上の一軒(米三〇俵一斗六升)は生糸、一〇俵以上三〇俵未満層は繭一軒、生糸四軒、五俵以上一〇俵未満層は繭一〇軒、生糸六軒、五俵未満層は繭一三軒、生糸二軒である.すなわち、繭と生糸生産には強い階層性はないが、総じて言えば繭は中・下層で、生糸は中・上層で生産する傾向がみられる。
 次に、三〇俵余の農民は多角経営をしている。この家だけが紙を漉いていて、またこの家と米生産量二位(一九俵二斗)の家だけが菜種を作っており、桑・楮子・生糸の生産量も多い大経営である。奉公人がいるのであろう。そして他方では無作三軒が蓬取り、艾取りの山稼ぎと苧外字つむぎで生計を立てていた。なお炭焼きや杉板(木挽か)は農家としては中・小規模であった。
 これに付け加えて言えば、前節で農業経営の構成をみた今立郡小畑村の最大高持の家が、明治三年と推定される表紙のない長帳で、水車を持ち、繭問屋を営んでいることがわかる(安達仲弥家文書)。この覚書は近村も含めた農業以外の諸営業者名を記載しているが、その中に糸繰屋が何人もおり、「夏蚕種」の職種もいる。弘化元年(一八四四)当時の小畑村の余業は表44のごとく山草等を採り、苧外字を作るほか炭焼き・槫割や駄持などで、絹関係の稼ぎはなかった。とすれば、繭生産や糸繰りはそれ以降に始まった新しい稼ぎであるといえる。おそらく、安政五年(一八五八)の日本の開港によって、生糸が輸出されて生糸の価格が上がり、急速に養蚕・製糸業が発達したことの影響がこの地にも及んできたのであろう。本節の所々で検討している幕末・明治初年の余業のあり方も、開港以後はそうした変化をふまえているし、やはり開港の影響である物価高騰も、前項で述べた奉公人給分などに影響を与えたはずである。



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