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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    三 農間余業の展開
      農民的営業の展開
 福井城下北西部の川西地区の「在方」は、明治初年にはかなり商工業の発達した地域であったことが従来の研究から知られている(三上一夫『日本近代化の研究』)。

表45 明治2年(1869)坂井郡大庄屋次郎左衛門組下21か村の免札持

表45 明治2年(1869)坂井郡大庄屋次郎左衛門組下21か村の免札持

 坂井郡江上村の大庄屋次郎右衛門組下二一か村は、九頭竜川左岸に沿う三国湊への川西街道沿いの村々であり、南西は紙漉の楢原郷四か村に隣接する地域であるが、表45のごとく、明治二年五月の「御免札持」(営業許可札所持者)はかなりの人数にのぼっている。二一か村全体では四割の村民が一種ないし二種以上の免札を持っていた。とくに岸水村は二四軒中二二軒が免札持であったが、村高に比べて軒数が多いことも考え合わせると、農業の比重の低い商・職人の村といってもよいであろう。次いで砂子坂・上野・佐野・三宅の各村は村民の半数以上が免札持で、布施田村もそれに近かった。このうち砂子坂村は前述のごとく在方商いに関して、一般の村々に対する規制の対象外とされていたが、むしろこの川西街道沿いの村々全体が商業化の進んだ地域であったといえる。

表46 明治2年(1869)坂井郡大庄屋次郎左衛門組下21か村の免札の種類

表46 明治2年(1869)坂井郡大庄屋次郎左衛門組下21か村の免札の種類

 二一か村の免札の種類は、表46のごとく七〇に及んでいる。これを、職人・製造業、商人、および運送業に大別してみると、職人・製造業は二九種で、酒造・醤油・糀・豆腐・紺屋・鍛冶等の業が各数軒以上あり、桶屋・指物屋・土臼師・いかけ屋もいて、これらが農村の生活需要にこたえていたと考えられる。また木挽が岸水村その他で二九人を数え、大工も多いが、ほかに建築関係の石屋・屋根屋・壁屋・瓦師がおり、経師・植木屋もいて職種の分化、専門化が進んでいる状態がわかる。
 商品流通を担当する商人の免札は三三種に及び、柿商・灰買が特徴的に多い。この二つの商品は製紙業などに必要な原料であり、隣接する楢原四か村の製紙の需要にこたえているのであろう。なお佐野村は柿実が特産であり、明治五年に一〇〇〇荷を生産していた。前述近世中期からの特産(表34)であった牛蒡種を扱う商人も注意される。
 繭・絹の仲買がいて絹問屋があり、葉藍仲買がいて紺屋があり、布外字・苧外字の仲買がいて布売買人がいるのは、この辺りの加工原料作物生産とその商品化の進展を物語っている。すなわち、絹製品を例として言えば、繭仲買がいることは生産した繭を売る者がおり、絹仲買がいることは絹布を織る者がいることである。また製糸については、この二一か村の中で砂子坂村だけが生糸一〇〇貫匁(明治五年)を生産していることが「足羽県地理誌」で知られるから、この地方では養蚕・製糸・絹織の生産三工程が分化していることがわかる。もっとも、他の先進地域のように分化が繭生産の村々、絹織の村々といった地域ごとの違いとして目に見える程ではなかった。そして、この地域ではその中心地が砂子坂村であったことは、製糸工程が集中し、絹仲買が集住していることから明らかである。「小商」の免札も多いが、むしろ取扱い商品を特定して商業に携わっている者が多いことは、やはり商業でも職種の分化、専門化が進んだ状態を示すものと理解できよう。運送業者は駄賃持の他に「車力」があることが注目され、川舟も所持する者もいて九頭竜川の舟運も盛んであったことがわかる。そして江上村と布施田村には渡し場があり、そうした交通の利便性が、この地域の商品経済発達の重要な条件となっていたであろう。
 なお、その砂子坂村についてみると、表46に示したように免札の種類は二九に及び、酒造・醤油・麹や紺屋などのような主要な製造業のほか布・太物・古手などの衣料品、茶・菓子・下足などの日常品販売があり、さらに米の売買も行われ、蕎麦屋が二軒、湯屋一軒もあって町場的な所であったことが知られる。
 しかしまた、これら商工営業人には二種類以上の免札を持つ者が、二一か村全体で六九人おり、免札持の四分の一に当たる。中でも最も町場化した砂子坂村は二一人で五割近く、免札持の比率の最も高い岸水村は九人で四割に達している。この点から商工業には複数の商品を扱わねば生計が成り立たないような小規模な営業も多かったことがうかがわれる。
 ところで、同じ明治二年五月付で、別の史料「組下村々銘々持高銘々商業免札持改帳」(久津見守雄家文書)があり、内容は不完全であり、表45・表46と数値に小差はあるが、それによると表示の免札の種類のほかに「日雇」「奉公」「酒屋奉公」「髪結」「草履草鞋小商」などの免札もあったらしいこと、また免札を持たずに奉公、日雇や諸種の小商をしている者が、主に雑家層にいることが指摘できる。とすれば、農業以外の稼ぎは実際には前掲表示以上に多かったことになる。そして、高持百姓が免札を持って農業と兼業する者も多く、御所垣内・島山梨子・布施田・三宅・小尉・砂子田の六か村で六八軒を数えることができ、表45の高持数を母数とすると四割に当たる。また、雑家のうち稼ぎを記載した者は五三軒で六二パーセントを占めるが、例えば、御所垣内村は一八軒中四軒と少ない。この村は莚の生産がとくに多い(明治五年一万五〇〇〇枚)ので、そうした生産にも携わっていたであろうが、それは右の史料には表れてこない。
 以上の概観から、この地域では「在方」でありながら多種多様な商工の営業者が簇生している状況にあり、百姓も農業と兼営し、雑家も零細な営業者として生計を立てながら、全家数の三分の一に当たる階層をなしていたことがわかる。



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