本文へスキップ

コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

「職員録」だって歴史資料なのです

目 次

  1. はじめに
  2. 明治初期の職員録(官員録)
  3. 職員録が附録だった?
  4. 職員録からわかる組織の移り変わり
  5. 戦後の福井県職員録からわかること
  6. 意外な関係・・・職員録と情報公開制度
  7. そして、デジタルヘ・・・

1 はじめに

現在、福井県文書館では、福井藩の「給帳」をテキストデータ化(給帳データセット)して公開する取り組みを進めています。給帳とは、歴代藩主ごとに作成された藩士名簿であり、禄高順に配列されたものや出身地が記されたものなどがあります。
さて、今回のコラムでは、江戸時代の給帳に相当するものとして「福井県職員録」について紹介したいと思います。発刊年ごとに比較しながら、発刊された年の状況を垣間見ていきたいと思います。

2 明治初期の職員録(官員録)

(1)「官員録」?「職員録」?

職員録について文書館や図書館等で検索する場合、キーワードには「職員録」と「官員録」を「or検索」とするのがコツです。なお、今回の検索では、福井県文書館の「デジタルアーカイブ福井」のほか、「国立国会図書館デジタルコレクション」、「国立公文書館デジタルアーカイブ」を使用しています。

さて、デジタルアーカイブ福井で明治以降の「職員録」として最初に登場するのは、「福井藩職員録」(松平文庫(当館保管)A0143-01322など)です。また、同じく松平文庫には、「足羽県官員付」(松平文庫(当館保管)A0143-02091)も見つかります。これらはいずれも和紙に手書きされたものであり、あくまで内部資料として、すなわち公文書として利用されていたもののようです。
足羽(あすわ)という名前は、足羽山、足羽川など福井県民(特に嶺北地方)であればなじみのある地名ですが、足羽県が存在していたのはあまり知られていません。そもそも足羽県が存在していたのは明治4年(1871)からわずか2年間です。

福井藩職員録(明治2年)

福井藩職員録(明治2年) 松平文庫(当館保管)

足羽県官員付(明治4~6年頃)

足羽県官員付(明治4~6年頃) 松平文庫(当館保管)

印刷物として最初に登場するのは、明治6年(1873)の「敦賀県官員録」(浄光寺文書C0019-00461)で、木版印刷です。 敦賀県については、明治4年(1871)にできたときは、若狭国および越前国今立郡・南条郡・敦賀郡の区域でしたが、明治6年1月に足羽県を編入して、現在の福井県とほぼ同じ区域となりました。したがって、福井県域に関する職員録としては、この「敦賀県官員録」が最初のものと言えます。

敦賀県官員録

浄光寺文書 C0019-00461(文書館閲覧室のみで公開)

内容を見ていきますと、「令」は空欄となっており、そのトップは「権令」として藤井勉三の名前が見えます。この藤井権令は旧長州藩士で、敦賀港の重要性を強調して足羽県の敦賀県への編入を大蔵省に建言した人物です(公文録「足羽県を敦賀県に合併の上申書、同建白書」。国立公文書館蔵)。「参事」に名のある村田氏寿は旧福井藩士で、合併前の足羽県の参事でもありました。
職員の情報については、「官」がある者(=「官員」、104名)については、官名と氏名のほか、正六位、従六位などの「位階」がある場合はそれも記載されています。官は地位を表す言葉であり、官がなく職務内容である「職」だけを持っていた職員(130名)は所属名のあとに氏名が列記されています。この「官」と「職」の関係性については、それだけで論文が書けてしまいますので、ここではあえて深入りはしません。

敦賀県官員録

加藤竹雄家文書(当館蔵) A0052-00611

次にヒットするのは翌年、明治7年(1874)の「敦賀県官員録」(加藤竹雄家文書(当館蔵)A0052-00611)です。「毎月改正」の文字が見えます。この頃は国の統治や地方自治の制度が固まっていない上に、職員数も増加傾向にあり、刊行物というよりも職員配置図のように利用されていたものと思われます。「敦賀県官員録」の部分は、書体や文字間隔が明治6年版と一致しますので、印刷して使用したことがここで確認できます。職員数は「官」がある者が114名、その他の職員が166名とやや増加しています。

敦賀県職員録

鈴木公宏家文書 A0056-00065(文書館閲覧室のみで公開)

さらに明治8年(1875)になると「敦賀県職員録」(鈴木公宏家文書 A0056-00065)となり、名称が「官員録」から「職員録」に変わります。「官員録」に「官」がない者を含むのはふさわしくないと判断され、「職員録」とされたものと思われます。

敦賀県職員録

よく見ると、「敦賀県職員録」のうち、「職」の文字以外は浄光寺文書や加藤竹生家文書の明治6年、7年と同じで、「職」の文字だけ字体や文字の濃さが違っています。あとからその部分だけ「入れ木」により修正した様子が伺えます。
内容は明治6年、7年の官員録と変わりませんが、職員数は「官」がある者が115名、その他の職員が181名とさらに増えています。

ここまで紹介した官員録、職員録は木版印刷ですが、同じ明治8年には、国の官許により活版印刷で作成された「官員録 全」(矢尾真雄家文書(当館蔵)C0065-00884)があり、印刷技術の進歩を見ることができます。

官員録 全

この官員録は、一定以上の官がある者の名簿で、中央官庁(各省)の職員を掲載する「甲」と地方官庁(道府県および市町村)の職員を掲載する「乙」の2部に分けられ、明治26年(1893)3月までほぼ毎月発刊されました。
職員については、官名、位階および氏名が列記されているほか、出身府県がカタカナで記載されています。権令の山田武甫の上部には「シラカハ」とあり、白川県(現在の熊本県)出身であることがわかります。「しらかわ」というと、どちらかというと福島県の白河の方を思い出す人が多いと思いますが、白河県は明治4年に廃止されています。

矢尾真雄家文書(当館蔵) C0065-00884

この官員録では、明治14年(1881)1月分まで、各府県の下に石高が掲載されているのが確認できます。石高制は明治6年(1873)の地租改正により消滅したとも言われますが、まだこの頃になっても一般には人口よりも石高の方が比較指標としてなじみがあったと思われます。

(2)「職員録」のお値段

福井県職員録

福井県立図書館(坪川家旧蔵)文書 A0141-00149

さて、この職員録、どれくらいの価格で販売されていたのでしょう。職員録に定価の記載のあるものはなかなかないのですが、明治14年に発行された福井県職員録(福井県立図書館(坪川家旧蔵)文書A0141-00149)では、「定価10銭」の朱印が押されています。
ここで、米の取引価格から物価を換算してみます。明治15年1月4日付の「福井新聞(第一次)」によると、米の物価は「新米1俵上3円50銭」とされています。また、農林水産省が発表している「令和元年産米の相対取引価格・数量(令和2年1月)」によると、福井県産コシヒカリの価格(1俵/60kg)は14,797円(税抜)となっています。これにより明治15年の1円(100銭)は令和2年(2019)の4,227円と仮定すると、明治15年の福井県職員録10銭は、現在の約423円となります。令和元年度の福井県職員録は500円でしたので、やや強引な比較方法ではありますが、現在とほぼ同等の価格水準であったと推察されます。
参考までに、明治18年(1885)の石川県職員録は12銭、明治23年(1890)の山形県職員録は10銭という記録が残っています(いずれも国立国会図書館デジタルコレクション)。

(3)福井県の誕生

福井県職員録

福井県職員録(品川為吉編,岡崎左喜介出版、国立国会図書館デジタルコレクション)

敦賀県は、明治9年(1876)、木ノ芽峠を境にして石川県と滋賀県に分割併合されてしまいますが、明治14年2月7日にふたたび石川県と滋賀県から分割併合され、現在まで続く「福井県」が誕生します。 そしてその年の6月30日、初めての「福井県職員録」(品川為吉編,岡崎左喜介出版、国立国会図書館デジタルコレクション)」が活字印刷により発行されます。掲載されている情報としては、出身県のほかに「族称」(士族や平民)が記されているのが特徴です。9割近く(218名/245名)は士族が占めています。事務引継ぎのため、石川県出身者が多く(42名)が採用されている様子もわかります。このスタイルの職員録は、明治22年(1889)3月版まで確認できます。

なお、この2月7日は福井県条例でふるさとの日とされており、明治15年2月7日には、置県1周年を祝し旧福井藩主松平慶永(春嶽)が石黒県令と多賀少書記官あてに送った書簡も残っています。

置県1周年を祝う春嶽の書簡(当館蔵)

置県1周年を祝う春嶽の書簡(当館蔵)

3 職員録が附録だった?

(1)官報の附録としての職員録

職員録

職員録、明治19年(乙)、国立国会図書館デジタルコレクション

ここで、再び国の状況を見てみましょう。前述した「官員録」は引き続き毎月発行されていますが、それとは別に、明治19年(1886)からは新たに内閣官報局より、官報の附録としての「職員録(国立国会図書館デジタルコレクション)」が発行されます。名称が「官員録」ではなく、「職員録」となっています。凡例に「官制外ノ職員ト雖モ重要ナルモノハ間ニ之ヲ登載セリ」と記載されています。
この職員録も、中央官庁(各省)の職員だけでなく、地方官庁(道府県および市町村)の職員も横断的に編纂しており、大正6年(1917)までは中央官庁(各省)の職員を掲載する「甲」と地方官庁(道府県および市町村)の職員を掲載する「乙」の2部に分けて刊行されたのち、大正7年(1918)からは1冊となりました。刊行頻度はおおむね1年に一度です。
掲載されている職員の情報を見ていくと、明治19年版では、官名、職名、位階、勲等および氏名が記載されています。明治27年(1894)版からは知事以下の一定の官以上に俸給が明記され始め、翌28年版からはやはり一定の官以上に住所が明記されます。この住所は大正11年(1922)版で突如削除されますが、昭和5年(1930)に知事のみ復活し、昭和18年(1943)までほぼ同じ形式で発行されます。
この官報職員録については、福井県文書館では、県史編さん時に撮影した明治19年版(X0579-00001)から昭和29年(1954)版(X0579-115)までを複製本で閲覧できます(金沢大学付属図書館蔵。なお、昭和19年、20年は発行されず)ので、官がある職員の人事の流れは概ねたどることができます。

(2)県報の付録としての福井県職員録と刊行物としての福井県職員録

福井県職員録

小沢藤兵衛家文書 A0543-00327

明治27年(1894)には、県報の付録としての福井県職員録(小沢藤兵衛家文書A0543-00327)もつくられています。紙の向きが縦です。国が官報の附録として職員録をつくっていたのと同様に作成したものと思われますが、県報附録版の福井県職員録は、残念ながら後にも先にも、この年のものしか確認されていません。

福井県職員録

品川太右衛門編、国立国会図書館デジタルコレクション

一方、国立国会図書館では、県報版とは別の「福井県職員録」(品川太右衛門編、国立国会図書館デジタルコレクション)の明治27年から30年(1897)のものが確認できますが、この2つの職員録は、その構成、内容とも全く同じです。唯一の違いは、県報版の表題が「福井県職員」、刊行物版は「福井県職員録」という点です。県報版もこの4年間は発行されていた可能性があります。
ちなみにその内容を見ていくと、全職員について氏名および級(または月額給)があり、まさに「給帳」となりました。

福井県職員録

加藤竹雄家文書(当館蔵) A0052-00612

刊行物としての「福井県職員録」については、残念ながら、そこからしばらくは存在が確認できておらず、次は明治38年(1899)年に発行された「福井県職員録」(福井県知事官房発行、加藤竹雄家文書A0052-00612)になります。ここでは、出身県の代わりに住所が追加され、族称は削除されています。族称については、戸籍にはこの後も残るものの、社会的にはこの頃には既に有名無実化していたのかもしれません。
なお、昭和初期までの福井県が発行した職員録については、俸級表(給料表)や事務分掌(どの所属がどの事務を担当しているかの表)が追加されたりしていますが、職員情報についての情報はほとんど変わっていないようです。

4 職員録からわかる組織の移り変わり

ここまで、職員録について主に「職員」に関する情報公開という目線で見てきましたが、ここで「組織」という目線で見てみます。
明治24年(1891)版(国立国会図書館デジタルコレクション)を見ると、福井県の組織は、知事官房、内務部、警察部があり、さらに直税署、間税署、監獄署と続いています。内務部は厚生、土木、産業、農業などを総括的に含んでいるものですが、敢えて警務部と徴税部門が独立している点で、当時の業務が治安の維持と徴税業務を重視しているように見えます。この直税署、間税署は明治27年には一緒になって収税部となり、明治29年に国の機関である税務管理局、税務署が徴税業務をすることになり消えます。

また、大正5年版(福井大学附属図書館蔵 A0069-00147)を見ると、内務部から独立した港湾部ができています。大正3年に第一次世界大戦が始まり、物資の不足したヨーロッパやアジアに向け、敦賀港から多くの商品が輸出され、国際貿易港にふさわしい港湾修築工事が行われたためと思われます。
さらに、昭和16年版(福井県文書館蔵 A0200-00091)になると、内務部が分割して総務部、学務部、経済部が創設されており、職員数も全体で1,840名(警察署職員、教員、委員会等は除く)となるなど、組織の形や規模が現在に近づきつつあります。学務部職業課の中に「満州開拓民訓練所」があったり、石油・石炭に代わり需要が急増した木炭に対応する「木炭検査所」ができていたりしているところで、戦争拡大の影響が県の組織にも表れています。
このように、職員録に表れる組織の名称、その並び順、そして配置された職員数などを調べていくことで、その時点における県政の重要政策や、国、市町村との関わりなどを知る手がかりとなります。
これは職員録に限らず、福井藩の給帳についても同じで、給帳を活用することで、藩における家臣団の構成やその推移がよくわかります。

5 戦後の福井県職員録からわかること

(1)職員等の個人情報の扱い

戦後に福井県が発行した「職員録」については、県立図書館で昭和24年(1949)以降の蔵書が確認できます。戦後間もなくは、戦前の「職員録」を踏襲した縦書きスタイルです。
職員についての情報の変遷を見ていくと、最初の昭和24年版では、所属、職位、職級、吏員(事務吏員、技術吏員)等の名称、氏名が表示され、一部の役職者については住所も記載されています。さらに、昭和27年(1952)には電話番号も追加されています。
近年の「福井県職員録」の形が確立されたのは、昭和37年(1963)です。この年から横書きに変更になりました。また、紙質が前年度までの酸性紙っぽい赤色から比べると白色度が増しており、紙の供給が安定してきた時代背景が伺われます。
もうひとつの注目点は、この年から、全職員の住所(役職者は電話番号も)が表示されるようになりました。この時代、住所は「個人情報」という認識がほとんどなく、例えば「プロ野球選手年鑑」にも、ファンレターの送付先として有名選手の住所が番地まで掲載されていましたし、職員録や企業の社員録などに住所が記載されているのが普通でした。
この職員録の住所記載は、個人情報保護法が施行された翌年の平成16年(2004)まで続き、平成17年(2005)からは知事など一部の特別職を除き掲載されなくなりました。
余談ですが、日本郵便株式会社によると年賀状の発行枚数は、平成15年(2003)用の約44.6億枚をピークに、平成31年(2019)用は約24億枚まで大きく減少しています。SNS等の普及の影響もあると思いますが、個人情報保護に関する意識が高まり、全国的に職員録や社員録などに住所が記載されなくなった影響は小さくないと思われます。

(2)職員録の題字は知事の特権!?

職員録の表題については、昭和38年(1963)に北栄造知事のときに、活字から手書きになりました。その後、中川平太夫知事が5回、栗田幸雄知事が5回書かれています。あとのほうは慣例で続けていたかも知れませんが、なんとなく、そういうところに権威のようなものを感じる時代だったのかも知れません。
平成15年(2003)に初当選した西川一誠知事は、最初に書かれた題字のまま在任中は変わりませんでした。そして現在の杉本達治知事が就任した令和元年は、表題が活字に戻りました。こんなところも時代を表しているように感じます。

北栄造知事の題字(昭和38年)

北栄造知事の題字(昭和38年)

中川平太夫知事の題字(昭和43年)

中川平太夫知事の題字(昭和43年)

栗田幸雄知事の題字(昭和62年)

栗田幸雄知事の題字(昭和62年)

西川一誠知事の題字(平成15年)

西川一誠知事の題字(平成15年)

表 戦後職員録の内容の変遷
S24年(1949) 職員についての掲載情報は、所属、級、吏員等の名称、氏名 一定以上の役職者に住所を記載
S27年(1952) 一定以上の役職者に、「電話番号」を追加
S29年(1954) 職員情報から、「級」を削除
S36年(1961) サイズが一時的に大きくなる。縦書きから横書きへスタイル変更
S38年(1963) 現在の福井県職員録の基本スタイルにリニューアル。 サイズがB5版に変更され、紙質に明らかな向上が見られる 「○年○月○日現在」がなくなり、年号表記「‘63」に 発行者名(「総務部人事課編」)が消える。
全職員に「住所」を追加
S39年(1964) 題字が北栄造知事になる。
S42年(1967) 題字が印刷文字になる。(知事改選年)
S43年(1968) 題字が中川平太夫知事になる。
S48年(1973) 題字変更(中川平太夫知事2回目)
S49年(1974) 題字変更(中川平太夫知事3回目)
S56年(1981) 題字変更(中川平太夫知事4回目)
S58年(1983) 題字変更(中川平太夫知事5回目)
S61年(1986) 福井県公文書公開条例施行
S62年(1987) 題字が栗田幸雄知事になる。(知事改選年)
元号表記に変更、年月現在表記
S63年(1988) 「○年○月○日現在」表記に変更
H1年(1989) 題字変更(栗田幸雄知事2回目)
職員録がA5版サイズになる。
H5年(1993) 題字変更(栗田知事3回目)
H9年(1997) 題字変更(栗田幸雄知事4回目)
H12年(2000) 題字変更(栗田幸雄知事5回目)
福井県公文書公開条例を改正し、福井県情報公開条例が施行
H13年(2001) 情報公開法施行
H15年(2003) 個人情報保護法施行 題字が西川一誠知事になる。
(知事改選年)
H17年(2005) 知事などの特別職を除き、職員情報から住所と電話番号を削除
H18年(2006) 地方自治法改正(吏員制度廃止等)
H19年(2007) 吏員の区分削除
R1年(2019) 題字が活字印刷に変更(知事改選年)
表紙(表裏)に写真を掲載
R2年(2020) 印刷物からインターネットによる公表へ変更

6 意外な関係・・・職員録と情報公開制度

行政機関が保有する公文書については、個人の権利利益を保護する観点から、特定の個人を識別する情報等は非公開(いわゆる黒塗り)となることが多くあります。では、公務員の氏名についてはどうなっているか、というと、実は国や地方でも対応はバラバラです。
国の場合は、平成11年に成立した情報公開法では、「当該公務員の職及び当該職務遂行の内容に係る部分」については公開することとなっていますが、その氏名は原則として私人同様、非公開情報とされています。一方、その例外として、「法令の規定により又は慣行として公にされ、又は公にすることが予定されている情報」(1号イ)は公開する、という規定があります。
これにより独立行政法人国立印刷局等が発行した職員録に掲載されている、または国が報道発表している人事異動情報等にある職員の氏名については黒塗りせずに公開されます(職員録基準)。現在の職員録はまさに情報公開制度の一部となっているとも言えます。
ちなみに福井県の場合は、福井県情報公開条例により、「当該公務員等の職および氏名ならびに当該職務遂行の内容に係る部分」については公開するとされていますので、職員録の氏名掲載の有無に関わりなく氏名が公開されています(公安委員会規則で定める職にある警察職員の氏名に係るものその他の公にすることにより当該公務員等の権利利益を不当に害するおそれがあるものは除きます)。仮に職員録基準を採用したとしても、国と違ってほぼ全職員が職員録に掲載されていますので、結果は変わらないでしょう。

7 そして、デジタルヘ・・・

印刷刊行物としては最後の令和元年度福井県職員録

印刷刊行物としては最後の令和元年度福井県職員録

職員録は、発行年別に比較したり遡ったりすることで、県政や当時の社会情勢などを知ることができる貴重な歴史資料であることは疑いようがありません。
しかし、さらなる時代の流れにより、福井県職員録については令和2年からホームページ上で掲載され、印刷物としての刊行はなくなってしまいました。職員録を購入することなくいつでもインターネットで見られるという点で、現在の私たちにとっては利便性向上につながりますが、一方で貴重な歴史資料を保存していくという観点で考えると、デジタル資料はホームページから消えてしまうのも早く、収集タイミングを逃してしまう危険性があります。さらに、保存するファイル形式のバージョンも年々古くなり、紙媒体と違って何十、何百年か後にも必ず見られるという保証はありません。
文書館では、令和2年度のものもPDFデータをデジタル資料として保存、公開していますが、今後はこうした点にも注意しながら、歴史資料としての職員録を後世に引き継いでいかなければならないと思います。
また、今回のコラム作成にあたり、明治以降の職員録について、一覧表(EXCEL:50KB)を作成しました。デジタル公開されているものにはリンクも設定してありますので、調査研究やご先祖探しなどで活用いただければ幸いです。

和田 恭典(2020年(令和2)12月24日作成)
(2021年(令和3)3月2日加筆)
(2021年(令和3)3月3日加筆)

参考文献