A0027-00100 文政4 年(1821)
「下馬村六郎兵衛妻離縁申分内済証文」
片岡五郎兵衛家文書
3グループにわかれて古文書を読みあっていきました。
これはCグループで読んだ資料です。
(表紙)
「下馬村六郎兵衛妻離縁申分内済証文」
ともに跡継ぎのために養子に入りながら不仲になってしまった「もよ」と「与三右衛門」。
この資料は、片岡五郎兵衛ほか2名の大庄屋が「あつかい」(調停)にはいって藩の役人の手を煩わせずに内々に解決しようとした離婚の「内済」証文です。
六郎兵衛家は持高120石と大きな高持百姓でした。もよの実父又右衛門はもともと六郎兵衛家の縁続きであり、もよは3歳の頃から引き取られて養女として育てられました。これに対して与三右衛門にも実父のほか伯父にあたる庄屋八兵衛がいました。こうした事情からもよの立場が軽軽にあつかわることはなかったようですが、内済にあたってもっとも重要視されたのは六郎兵衛家の「家」としての存続でした。具体的には、離縁しても同居して家業と家政をそれぞれ捌くこと、再婚する際の条件や子どもが生まれた際の相続順位、さらには同居できなくなった場合には財産を等分に分割し、与三右衛門方が「あじち」(分家)と名乗ることなどが詳細に取り決められています。
下馬村は足羽川下流左岸に位置し江戸時代を通して福井藩領、村高は田方1,161石、畑方155石(正保・元禄・天保郷帳ともに)でした。現在の文書館が位置する地籍にあたります。
解読文はこちら(PDF:40KB)
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内済和談証文之事
一下馬村先ン六郎兵衛儀者、跡世次之子共無之ニ付同村又右衛門義者内
縁之者ニ御座候ニ付又右衛門娘もよと申者年三才之頃貰生
育候処、男子養子之儀者同村門左衛門悴与三右衛門与申者貰
受候所、六郎兵衛病死仕候ニ付右貰置候両人之男女跡相続仕候間、
六郎兵衛病死之翌年養娘与養子与三右衛門与婚礼仕度一家共
寄合及示談候所、与三右衛門申候ハ此形ニ而ハもよと婚姻難致候、
一旦もよ親本又右衛門方へ引取歯染仕候而遣候ハヽ婚礼可致旨
申之ニ付、任其意又右衛門方へ引取歯染致候上ニ而婚礼取結候、