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福井県文書館 松<strong>平</strong>文庫テーマ展29

文庫テーマ展

剛明果決の人 長谷部甚

幕末の福井藩で藩政改革に取り組んだ藩士として、しばしば橋本左内や由利公正の名前が注目されますが、殖産興業策を主導した人物に長谷部甚(1818~1873)がいます。
中根雪江から「学識あって剛明果決(ごうめいかけつ。学問と見識があって、心が強く、知は明らかで、なおかつ決断が早い)」と評された人物で、横井小楠や坂本龍馬からも高く評価されていました。
本展示では、松文庫の履歴資料を中心に長谷部の生涯をたどり、「松慶永政権」を支えた一人の藩士の人物像を紹介します。

会期

2020年9月10日(木)~10月21日(水)

会場

福井県文書館閲覧室

(1)16歳、家督200石を相続

 「姓名録」

A0143-02011
「姓名録」
文庫(当館保管)

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長谷部甚は文化15年(1818)に福井藩士・加賀成守の3男に生まれました。
後に長谷部冝連の養子となり、諱は同家の「通字」である「連」の字を用いて恕連(よしつら)を称します。
天保4年(1833)に家督(かとく)2000石を相続し、翌年通称を吉之助から甚に改めました。

(2)31歳、重職の目付に就任

「剥札」

A0143-00469
「剥札」
文庫(当館保管)

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嘉永元年(1848)31歳の時、目付(めつけ)の役に就きます。目付は藩政全般の監察を任務とする役であり、家老が執務する御用部屋(ごようべや)への出入りも許される重職でした。翌年には藩主・慶永(春嶽)の意向を受けて「文武」取調に関する仕事にも携わっています。

(3)文武改革に献策

「迂策」

A0143-20479-008
「迂策」
文庫(当館保管)

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嘉永2年(1849)文武取調の一環で甚が立案した藩制改革案。従来の家格・年功ではなく、志気や文武・材能(才能)を重視して、優秀な藩士を役付きに登用すべきとする内容です。
なお、甚は鎗術・兵術・剣術・砲術の免許を受けており、武術にも秀でた人物でした。

(4)学識あって剛明果決

「奉答紀事」

A0143-01261
「奉答紀事」
文庫(当館保管)

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中根雪江は甚の人となりを「学識あって剛明果決(学問と見識があって、心が強く、知は明らかであり、なおかつ決断がはやい)」と評しています。
横井小楠もまた「彼の国第一の才人にて、才力鋭敏、論断圧人(才知の力が鋭く、議論による決断力は他者を圧する)」と甚を高く評価しました。

(5)33歳、財政・民政を担う御奉行に

「給帳」

A0143-01320
「給帳」
文庫(当館保管)

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資質を認められた甚は、嘉永3年(1850)33歳のとき、藩の財政と民政を担当する御奉行(いわゆる勘定奉行)の1人に選ばれます。
慶永の「牧民勧農(民を治め、農業を奨励する)」の志に沿って職務に努めた結果、下級役人の悪習などが一洗されたといいます。

(6)小楠との三国行き

「村田巳三郎宛長谷部甚平書翰」

A0143-追加
「村田巳三郎宛長谷部甚書翰」
文庫(当館保管)

安政5年(1858)横井小楠が熊本から賓師として迎えられると、甚は小楠への傾倒を強めていきます。
三国湊を案内した際、小楠は安島浦が「北海第一の港」となる可能性に気づいて大喜びし、甚は小楠との議論の中で民富や殖産の重要性に気づいたようです。

(7)42歳、町政を担う寺社町奉行に

「越前世譜」
「越前世譜」

A0143-01980
「越前世譜」
文庫(当館保管)

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安政6年(1859)町政を担う寺社町奉行にも任じられます。商人と協力して流通や経済を押さえ、万延元年(1860)からは殖産興業の拠点「産物会所」設立も主導しました。
文久3年(1863)中央政局での発言力を高めるべく発案された挙藩上京計画の中心にもいました。

(8)46歳、隠居・蟄居を命ぜらる

「士族略履歴」

A0143-00472
「士族略履歴」
文庫(当館保管)

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文久3年(1863) 7月挙藩上京計画は頓挫し、中心人物は処分。甚は最も重い隠居・蟄居を命じられました。その理由は「近来別して我意に募((自分の考えを押し通そうとする態度が強く)、自己の取計い等もこれあり、品々御政道に相触れ候(藩政の方針に背く)」というものでした。

(9)51歳、笠松県知事に(後に岐阜県令)

「官員録(明治元年)」

A0143-M205650000
「官員録(明治元年)」
文庫(当館保管)

藩の殖産興業策を主導した甚は、幕末の激動期に政治の場からは退いていました。
しかし慶応4年(1868)新政府から美濃国笠松県知事(後に岐阜県令)に任命されると、治水や民心安定にあたり、県庁舎を笠松から岐阜に移すなど、初期岐阜県政の基礎を築きました。

(10)甚死去2年後の岐阜県職員名簿

 「官員録(明治8年)」

A0141-00163
「官員録(明治8年)」
福井県立図書館蔵

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の笠松県知事・岐阜県令時代、士族を中心に多くの福井人たちが役人として呼び寄せられました。県ナンバー2の権参事・斯波有造をはじめ、橘曙覧の子・井出今滋、後の初代福井市長・鈴木準道ら13人の福井人の名が見えます(岐阜県全体の官員数は78人)。

福井県文書館

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開館時間

開館時間  9:00~17:00
休館日   月曜日(祝日の場合は翌日)
      第4木曜日