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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    三 大名と寺社
      寺庵と祈

すでに坂井郡坪江郷を例に述べたように、荘園領主は氏神などを現地に勧請して荘民を支配しようとしていた(一章六節五参照)。地頭についても、三方郡倉見荘地頭の二階堂氏が延慶三年(一三一〇)荘内の御賀尾浦(三方町神子)に諏訪社を勧請して、その祭礼である御射山祭を行なっている例が知られる(資8 大音正和家文書二七号)。これに対して、国という広範な領域を支配する守護大名や戦国大名は特定の氏神・氏寺崇拝を領国全体に強要することはできないから、その寺社対策も独自な形をとっていた。その独自性とは、寺社を領国支配の観点から掌握し編成することであったといえよう。

写真280 小浜八幡宮(小浜市男山)

写真280 小浜八幡宮(小浜市男山

 若狭においては、すでに一色氏入部後まもない永和三年(一三七七)に、小浜八幡宮と若狭一・二宮において行なわれる流鏑馬に対する流鏑馬役が、国内の御家人役として地頭職所有者に課されている(ツ函六九、し函二二〇)。これはのちに八月十五日の小浜八幡宮放生会役と九月十日の一二宮流鏑馬役とされるが(ツ函七六)、特に国内地頭・御家人を動員して行なわれる流鏑馬は、一色氏が国内において軍事指揮権をもつことを確認するための儀礼であったと考えられている。それゆえ、守護諸役免除の太良荘に対してもこののち一二宮造営段銭は必ず催促されており、武田氏の代の宝徳二年(一四五〇)の例では、小浜八幡宮神事の催促はなかったが、九月十日の一二宮神事の人夫は強引に徴発したという(ぬ函一〇六)。これらの例から、一色・武田両氏が領国支配のうえで一・二宮の流鏑馬を重視していたことを知ることができよう(三章二節参照)。
 戦国大名朝倉氏の領国において人びとが寺庵・給人・百姓の三身分に分けられていたことは、朝倉氏が在地に充てた文書の充書きから明らかである(資5 山岸長家文書一〇号、資7 白山神社文書一〇号など)。これは西欧中世の祈る人(聖職者)・戦う人(騎士)・働く人(農民)に対応する三身分であるが、給人として認定するのは朝倉氏であったように、この寺庵・給人・百姓は朝倉氏の領国身分なのである。朝倉氏は仏法興隆という抽象的な目的のために寺庵身分を認めているのではなく、寺庵も他の二つの身分と同様に朝倉氏および朝倉氏が支配する越前の国のために独自の役を果たすことが期待されていた。その役とは、まず何よりも祈することであった。永禄四年(一五六一)に若狭に出兵した朝倉氏は「諸寺庵へ御祈の事」を命じており、朝倉氏より寺領を安堵されている寺庵である丹生郡の横根寺には、軍神祈である大黒天王法を執行してその読経の結果を示す巻数を進上せよとされている(資6 青山五平家文書三号)。今立郡大滝寺の場合には、朝倉孝景(英林)より大威徳明王尊像を預けられ、怨敵調伏と戦勝祈願の「国家御祈」を行なっていることが寺領の違乱に対して朝倉氏に保護を求める根拠とされており、事実義景に大威徳明王法を執行した巻数を捧げている(資6 大滝神社文書七・九号)。
 寺庵が朝倉氏のために行なう祈の軍事的形態が、従軍して将兵のために読経などをする陣僧役の負担であった。永正十年(一五一三)に敦賀郡司の朝倉教景が西福寺に対して発した定書によれば、朝倉氏より所領を安堵されている西福寺寺内・門外の僧は実際に朝倉氏が出陣したときには陣僧を勤めること、ならびに「地頭・領家・給主」などの個別領主が陣僧を徴発することを禁止している(資8 西福寺文書一七三号)。陣僧は寺庵身分の者がその職能に応じて果たす役ではあるが、それを負担するのは朝倉氏により所領を安堵されている寺庵に特定されており、陣僧役は給地を与えられた家臣が負担する軍役に対応するものなのである。敦賀郡司は天文二十四年(一五五五)に郡内の寺庵・神子(巫女)・祝にも陣夫役を課そうとしているが、これは朝倉氏によって所領の安堵を受けていない寺庵の場合であり、所領安堵を受けている寺庵が陣僧を負担するのに対して、それを受けていない寺庵には百姓の役である陣夫役を負担させようというのである(資8 刀根春次郎家文書一三号)。

表63 朝倉氏の課した寺庵役

表63 朝倉氏の課した寺庵役

 さらに朝倉氏領国制下では、寺庵に対して寺庵役が課せられた(表63)。これは寺庵の知行高の十分の一もしくは五分の一の銭を徴収するものであり、寺庵の知行高を掌握するため寺庵から指出を提出させている(資8 善妙寺文書二三号)。寺庵役の初見史料である永正七年の「敦賀郡寺庵役」は郡内の笙ノ川の河口近くの庄の橋の普請費用として課せられたことが明記されている。寺庵役は本来こうした公共事業を負担させるための役として始まったことが推定されるのであるが、その後の寺庵役は用途を明記することなく徴収されるようになった。永禄十三年・元亀三年(一五七二)の寺庵役は織田信長との決戦をひかえた時期に徴収されており、寺庵もこの軍事総動員体制のもとで応分の負担を強いられていったことが知られる。



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