目次へ  前ページへ  次ページへ


第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    三 大名と寺社
      惣寺社と小寺社
 次に、若狭武田氏のもとでの寺社の掌握と支配についてみておきたい。若狭においては、すでに南北朝期末の永和三年に守護一色氏の「国中神事奉行」として海部信泰が知られる(し函二二〇)。海部信泰はこのとき国衙税所代官であったから(「税所次第」)、神事奉行は税所代官が任じられることになっていたものと思われ、降って宝徳二年に武田氏支配下の「寺社奉行」として現われる永井(長井)氏も税所代あるいは文所であったことが確かめられる(資9 羽賀寺文書二七号、長井健一家文書三号)。この寺社奉行永井忠家は、天文八年より始まる武田信豊支配下において課せられた勘料銭(検注を免除する代わりに徴収される銭)の徴収について、「小寺社」分が未進となっているので、とりあえず「惣寺社」より代納してほしいことを「惣寺社年行事」に依頼している(資9 神宮寺文書五〇号)。このことから、武田氏支配下において寺社は惣寺社と小寺社に区分されていたことが知られる。このうち惣寺社については、享禄五年(一五三二)に武田元光が遠敷郡正照院(万徳寺)について定めた掟書のうちに、近年武田氏が院領安堵の御判を出したことから、武田氏奉行人が正照院を「惣寺社次」に扱って段銭など臨時課役を課しているが、先例に任せて臨時課役を免除するとみえており(資9 萬徳寺文書四号)、惣寺社とは武田氏より所領を安堵された寺社をさすことがわかる。これに対し永井任家は永禄七年に三方郡世久見浦寺社分田地を「若狭国今富の内小寺社分」として田辺新左衛門尉に充行っており(資8 渡辺市左衛門家文書一〇号)、浦の寺社分と称されるような小規模な田地をもつ寺社が小寺社と位置づけられていたものと思われる。若狭においては、宝徳元年に武田氏の推挙状をもって国内の寺院を対象とする東寺修造料の勧進が行なわれ、若狭三郡あわせて二二の寺院が奉加しているが(表67)、そこには村や浦の村堂など小寺社とみられるような寺院は含まれていない(ヌ函一八五)。おそらく室町期より若狭の国内で寺社を惣寺社と小寺社に区分する基準があり、税所兼帯の寺社奉行がこれらを管理していたのであろう。戦国期の若狭では密教系寺院に対しては雨乞のための祈念が命じられているが、「惣寺社雨請」とみえているから、若狭の国規模での雨乞は惣寺社の役であったことがわかる(資9 羽賀寺文書二七号)。
 越前の寺庵役に相当するものとして、若狭では国衙留守所より課せられる「寺庵・社家御要米」があった(資8 大音正和家文書二〇一号)。この要米賦課が知られるのは永正十四年のことであるが、若狭においてはこれ以前から「国中御料所・寺社・人給」などに対して「土貢(年貢)員数」を起請文をもって申告させ、その「拾分一」を徴収することが行なわれていた(ツ函三〇八)。戦国期の要米もこの寺社十分一徴収を踏襲したものであり、三方郡御賀尾浦では地頭が浦内の諏訪社の社米を一石と申告している。そのほか、寺社には前述の勘料米をはじめ要脚段銭・千石憑子(千石頼母子)が課せられているが(資9 羽賀寺文書二七号)、これらは寺社のみに課せられた役であったかどうかは明らかでない。



目次へ  前ページへ  次ページへ