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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    三 大名と寺社
      門前百姓
写真281 坂井郡滝谷寺(三国町滝谷)

写真281 坂井郡滝谷寺(三国町滝谷)

 近世に記された寺社の由緒書は、太閤検地によって所領を失ったが戦国期末までは所領を保証されていたことを述べているものが極めて多い。朝倉氏支配下において禁圧された浄土真宗本願寺派寺院のような場合を除けば、一般的にいって守護大名や戦国大名は寺社を保護した。具体的様子が明らかでないとはいえ、越前一宮の気比社の造営は朝倉氏当主の指令のもとに行なわれており(『越前気比宮社伝旧記』、資2 内閣 越前へ書札案文六九・七〇号)、若狭一宮の若狭彦社の造営も一色・武田両氏が国内に課す造営段銭によってまかなわれていた(オ函二一七、ケ函一四二など)。「朝倉英林壁書」には、国内巡検のときには伽藍・仏閣の修造状態をみて誉めたり批判することが必要であるとされているが、朝倉氏は天文二十二年には「国中神社鳥居大破」の様子を検分するため使者を派遣している(資6 西野次郎兵衛家文書四七号)。朝倉氏はこれ以前から寺社の修理に関心を寄せており、享禄元年には織田剣社と織田寺の年貢収納分と下行分(支出分)を確定し、修造料分を他の費用に流用することを戒めており(資5 劒神社文書二九〜三一・五〇・五一号)、同三年には南条郡大塩八幡宮の大破を地頭大瀬千光坊が訴えたことにつき、検使を派遣して千光坊や供僧と相談のうえで修理料・勤行料を確定させている(資6 大塩八幡宮文書一四号)。敦賀郡の西福寺においては僧食・行者下部衣物・造営など寺全体の費用に充てるべき寺領が定められており(資8 西福寺文書一三〇号)、当時このような寺全体の維持のための寺領は「寺物」とされ、僧の個人的生計を維持するための「僧物」と区別されていた。永正十二年に敦賀郡司朝倉教景(宗滴)は西福寺の訴えを認めて、今後は西福寺僧が訴訟のために一乗谷に滞在するときの費用は「寺物」から支出することを許可しているが(同一八三号)、「寺物」に関する西福寺の規定を改変するときには郡司の同意を必要としているところに、寺院維持のために大名権力が加えた統制のあり方を知ることができる。
 寺社の側からも、寺社の門前百姓に対する支配権を維持するために積極的に大名と結びつく必要があった。門前百姓の支配とは、本来は寺社が雑用に使役するために門前に居住する百姓に対する支配権として認められたものであろうが、やがて門前百姓としての身分が確定され、門前百姓が他の領主の被官となることや、寺領以外の者が門前に居住することが禁止されるようになる(資4 永平寺文書一二号、滝谷寺文書一〇〇号、資9 明通寺文書一四〇号)。すなわち門前百姓の支配とは、門前という空間に対する支配権というより、人に対する支配権となっており、弘治二年(一五五六)三国湊滝谷寺の門前百姓が逃亡したときには、朝倉氏より見かけ次第に誅伐することが命じられているのである(資4 滝谷寺文書六一号)。天文二十年・同二十二年の明通寺門前百姓に関する史料によれば、門前百姓は寺領に課された陣夫を勤め、明通寺の惣普請・雪掻き・経頼子(経典の購入を名目とした頼母子か)や宮川武田氏の参詣・寺内坊中の所用のときには、一の鐘を合図に身仕度をし、二の鐘で出仕し奉公しなければならず、これに背くと闕所処分(財産没収)を受けたり、門前百姓の山野河川の利用を止められることになっていた(資9 明通寺文書一三三・一三五号)。門前百姓は、こうした負担を逃れるために集団で抵抗したり、他の領主の被官となるなどの動きを示していたから、それを押さえるため大名から門前百姓支配権を保証される必要があったのである。
 また戦国期には、寺院の塔頭が近隣の武士を檀那として維持される動向が強まっていた。例として敦賀郡西福寺を挙げると、寺内の坊主職は寺家が支配することを含む「寺家式目」が永正十一年に郡司朝倉教景によって保証されていたが、翌十二年には木崎又太郎が寺内正寿院の檀那として坊主職を支配すべきことが同じく教景から保証されていたので、大永三年(一五二三)に西福寺衆僧中と木崎又太郎との間で正寿院坊主職をめぐる相論がおこっている(資8 西福寺文書二〇四号)。郡司教景は「寺家式目」によって坊主職は衆僧中の支配と裁定したが、もし木崎又太郎の子や親類を坊主職に任じるという「相談契約」があれば、それが優先されるべきであるとしている。大野郡平泉寺では寺内の小河聞浄坊跡を佐藤民部丞の子の福寿坊が継ぐことが朝倉氏から認められているが、福寿坊は佐藤福寿坊と出自を示す俗姓を冠してよばれている(資7 白山神社文書四・五号)。そのほか平泉寺では「高村清左衛門尉息式部卿公存秀」(同一三号)、あるいは「法師大名」と称された有力者の波多野玉泉坊・飛鳥井宝光院など、俗姓を名乗ることが広くみられ(「朝倉始末記」)、天文十年に賢聖院の後継者を選定するときには、「当代は国有縁の権威を本にする時分」であるからとして、権威ある俗縁との結びつきが優先されているのである(資7 白山神社文書三号)。



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