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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    三 大名と寺社
      寺社領の確保
 文永二年(一二六五)の若狭国大田文の国衙領内に寺田五一町余・神田一〇二町余が寺社免田(寺社に充てるため年貢・公事が免除されている田地)として設定されているように、国内有力寺社は国衙から所領を保証されていた(ユ函一二)。寺社田の存在した郷などが荘園化した場合には、この田地は荘園内の寺社免田として基本的に継続された。敦賀郡気比荘と丹生郡織田荘において越前一・二宮である気比社と織田剣社がそれぞれ有している所領や得分は、こうした免田を中心としていたと考えられる。寺社が荘園内の免田に経済的基盤を置くようになると、その寺社は現地の支配者である地頭などとの結びつきを強めるようになる。鎌倉期に寺僧が地頭代となっている遠敷郡松永荘内の明通寺と同荘地頭多伊良氏との密接な関係や(ル函一二)、嘉元四年(一三〇六)に両親の報謝のために弘法大師御影供料田地を寄進し、延文三年(一三五八)に寺の規式を定めている丹生郡糸生郷の地頭千秋氏と同郷内の大谷寺との結びつきがそうした例として挙げられよう(資5 越知神社文書六・一四号)。鎌倉期において国衙より認められた免田もしくはそれに系譜を引く荘園免田をもつ寺社は、天台・真言系のいわゆる顕密寺社にほぼ限られていたから、鎌倉期に新しく興った教派の場合には、曹洞宗永平寺と吉田郡志比荘地頭の波多野氏、同宗宝慶寺と大野郡小山荘地頭伊自良氏、あるいは浄土宗西福寺と敦賀郡櫛川郷地頭の山内氏の例にみられるように、初めから地頭の手厚い保護のもとに寺敷や寺田を確保したのである。
 しかし南北朝内乱期に多伊良氏が地頭の地位を失い、また室町期に千秋氏と大谷寺が争うというような状況のなかで(同一九〜二一号)、特定の保護者に不安を感じたそれぞれの寺社は、荘郷内外に寄進地や買得地を求めるようになる。また寺社への寄進者が庶民的な層をも含むようになり、応永二十五年(一四一八)をはじめとして大飯郡一乗寺(中山寺)に山王宮大般若経田や山を寄進したのは、三松東市庭の住人や青保内の「おとな」たちであった(資9 中山寺文書七・九・一五号)。さらに明通寺をはじめとする若狭の寺院は、庶民を含めて広く如法経米の施入を呼びかけるようになった(『小浜市史』金石文編)。



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