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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
     二 神事と祭礼組織
      中世的宮座の変質
 しかし、中世の宮座がそのまま近世に移行したと考えることはできない。慶長十四年(一六〇九)に最初の部分が書かれた「倉見之庄天満宮御祭礼帖」の写によれば、この年に以前からの諸人衆(宮座の構成員)が宮座を脱退したため、岩屋座・稲見座・畠中座には新座の衆を加え、従来からの白屋座とともに四座を定め、それまで三方郡倉見荘全体の宮座には属していたものの荘内の特定の座には属していなかった高橋清左衛門を岩屋座に、同じく辻子の二郎三郎を畠中座に加えたとされている。さらにこのときの決まりでは、岩屋座の高橋清左衛門と白屋座の井之口彦左衛門・同権六は惣座の衆より別格の上座であるとされ、それ以外の惣座の衆は「年次第」となったという。この記事から、戦国期には特定の土豪的家が倉見荘全体の宮座を構成していたが、慶長十四年に脱退者が出て倉見荘宮座は解体したので、村を単位とするような宮座に新しく構成員を迎え入れ、また残った土豪的家もその宮座に加えて新しい体制をとったことがわかる。高橋氏と両井之口氏を別格としたのは古い宮座の秩序に妥協したものであり、またこののちに書き加えられた頭次第によれば慶長十五年から六年間連続して白屋座のうちから頭人が出ており、その後の三年間は稲見座から頭人を出している。座が順番に頭を出していくのではなく、あくまで個人が頭の対象となるというこうした頭のあり方も古い体制を引き継いだものであろう。しかし元和五年(一六一九)からは、毎年四座の間で頭を回すようになっている。この倉見荘の例から、いくつかの段階を経て進行した中世的宮座の変質と解体の様子を知ることができよう。



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