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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
     二 神事と祭礼組織
      宮座の性格
 戦国期において、耳西郷や山西郷の鎮守である宇波西神社や二十八所社の神饌や神事芸能は、郷内の村々が単位となって奉納していた。したがって、村々には祭礼奉仕のための組織である宮座が形成されていたものと思われる。宮座についての中世の史料は極めて少ないので、近世の宮座の状態も参考にしながら検討したい。まず遠敷郡上中町安賀里の至徳元年(一三八四)八月の山の神社の上葺と鳥居の勧進棟札は読めない部分が多いが、八四人くらいの人が米銭を奉加している。造営勧進は氏子以外の人びとにも広くよびかけるものであるから、この山の神社の奉加が宮座の形式をとっていないことは当然であるが、三方郡常神社所蔵の寛正四年(一四六三)から天正三年(一五七五)までの宝殿棟札になると造営に宮座が関係してくるようになる(『若狭漁村史料』)。いま文明二年を例に挙げれば、勧進奉加は越前海岸の丹生郡小苦抜(小樟浦)・大苦抜(大樟浦)にまで及んでいるが、奉加の主力である常神浦住人は権守成四人(一一〇〇文)・兵衛あるいは衛門成四人(二〇〇〜五〇〇文)・大夫成七人(二〇〇〜五〇〇文)・烏帽子着八人(二〇〇〜五〇〇文)という浦内の格づけを得た人がそれぞれ括弧内に示した範囲の額を出銭している。このうち烏帽子着が近世以後において宮座加入を意味することは広くみられるから(資6 青山五平家文書九号、資8 公文名区有文書一号、木下重博文書一号『小浜市史』諸家文書編四)、造営奉加が宮座加入あるいは宮座の(序列)昇格と関連させられていたことがわかる。
写真279 三方郡弥美神社(二十八所社、美浜町宮代)

写真279 三方郡弥美神社(二十八所社、美浜町宮代)

 こうして造営にも宮座が影響を与えるようになったが、宮座の展開のなかでしだいに一つの傾向が現われてきた。遠敷郡名田荘三重の熊野神社所蔵の文正元年(一四六六)の上葺棟札には宜と並んで「地下坐首」の四人の名が記されているが、降って天文十五年の上葺棟札にもこの四人の家筋を引くとみられる四人が座の代表として現われる。近世の太良荘の宮座である宮仲間の構成員は中世において権守を称した百姓の子孫であるとされているが、永正十四年の山王社上葺棟札に大願主と奉加人として名が記されている三名はすべて権守を称しており、宮座の構成員が固定化し閉鎖性をもち始めていることが知られる(資9 高鳥甚兵衛家文書二一号)。若狭の近世の神社の由緒や宮座史料によれば、神事にあずかる家や株が限定されている例が多くみられる。越前においても、少なくとも戦国期には丹生郡田中郷の天王社には西座と東座があったが、それは「六人の家」で構成されており、さらに貞友進士家は座を超える別格の地位を占めていた(資5 進士正家文書一〜七号)。丹生郡横根村の寛永年間(一六二四〜四四)の宮座の規定では年寄仲間は一二人とされている(資6 青山五平家文書九号)。このように宮座が特定の家筋に限られてくるのは、前述のように中世後期において庶民の間にも世代を超えて永続する家が形成され、家の永続を願って寺庵を建立するような動きが現われたことと無関係とは考えられず(三章五節三参照)、家の由緒や地位を確認するという機能が鎮守社に求められたからであろう。



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