目次へ  前ページへ  次ページへ


第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
     二 神事と祭礼組織
      宇波西神社の田楽頭
写真275 三方郡宇波西神社(三方町気山)

写真275 三方郡宇波西神社(三方町気山)

 頭によって祭礼を行なう例としては、三方郡宇波西神社の田楽頭がよく知られている。宇波西神社は鎌倉期には三方郡耳西郷内に四町一八〇歩の神田をもっていたが、戦国期にはこれが七町六段とされている(資8 宇波西神社文書八号)。耳西郷は鎌倉後期に大和春日社の荘園となり、南北朝期に地頭職半分が京都の臨川寺の支配するところとなっていたが、いずれも応仁の乱ののちは年貢確保が困難になっていた(『雑事記』延徳二年十二月十三日条、『蔭凉軒日録』文明十七年五月二十七日条)。宇波西神社が武田氏やその家臣の文書を伝えていないことを考えると、武田氏の戦国大名支配下のもとでの宇波西神社の神田支配も同様に困難になったことが推定され、頭制度の形成はこうした状態と関連するものと思われる。
 さて、戦国期の宇波西神社は社家・供僧・御子(巫女)から構成されていた。御子については少なくとも五人いたことが知られるほか詳しいことはわからないが(資8 宇波西神社文書七号)、耳西郷の長泉庵・瑠璃寺・宝泉院などの寺庵が宇波西神社の神田の一部をもち、三月八日の例祭のときには「供僧」として神饌を調進している(同六・七号)。今日知られる限りでは、天文三年よりこれら寺庵(二四の寺庵があったと推定される)に対し、一年に四寺庵を「祭礼頭役」に、二寺庵を「馬鞍口取役」にそれぞれ差定して、神田のうち長日田・大般若田・彼岸田を与えて頭役を勤めさせることが行なわれていた。このうち祭礼頭役は中五年おいて六年目ごとに、馬鞍口取役は九年目ごとに、それぞれ再び頭役を勤仕するという廻り頭の制度であった(同一〇・一二・一三・一六号)。頭に当たった寺庵は供僧として三升盛四前・二升盛二前の神饌を供えるなどの役を果たしたのであろう。これは越前の大谷寺や大滝寺でみられた供僧の頭と基本的には同じものである。
写真276 上瀬宮祭礼神事次第写真(宇波西神社文書)

写真276 上瀬宮祭礼神事次第写真(宇波西神社文書)


写真277 宇波西神社の田楽

写真277 宇波西神社の田楽

 また宇波西神社では、郷民の名を頭に差定することもこれ以前から始まっていた。それが田楽頭である。大永二年(一五二二)の年紀をもつ「祭礼神事次第写」によれば、三月八日の例祭日には田楽村・しゝ(獅子)の村・王の村・早瀬浦・日向浦・くるみ浦(常神半島東側にあった浦)・神子の村(巫女の役を勤める集団もしくは村)・海山・供僧がそれぞれ神饌を調進しており、田楽・獅子舞・王の舞が奉納されていた(同七号)。このうち田楽村の負担すべき田楽と三升盛五前・二升盛三前・清酒五升・白米六升の神饌調進の責任者が田楽頭であったが、その頭人は祭礼の前年の三月五日に三人が選ばれ、頭文に毎年書き記された。この頭文は文明十七年以前のものが二、三枚あったというが、今日ではこの文明十七年以来のものがほぼ連年伝わっている(同一八号)。初めのころは名よりも個人名が多く差定されているが、天文十七年ののちは基本的に名に差定されている。差定されている名のうち在所を特定しうるものはほぼ気山(苧・中村・市・牧口を含む)に限られるから、田楽頭は気山の名を対象に差定されていたことがわかる。したがって気山内の名をもつ名主であれば気山以外の早瀬・日向・久々子・佐野・興道寺などの住人であっても頭が当たり、また百姓・寺庵・武士の区別なく差定された。天文十年に須磨弥五郎より気山の有光名を扶持された須磨太郎左衛門は来年の頭を弥五郎に代わって勤めることを誓約しているが、社家と推定される須磨氏であっても、名をもてば頭役を負担しなければならなかったのである(同一一号)。それはちょうど長禄二年(一四五八)に坂井郡竜沢寺が郡内(河口荘か)で獲得していた千代丸名について、三年に一度は本庄郷春日社の流鏑馬役を勤めなければならなかったのと同じことである(資4 龍澤寺文書一九号)。宇波西神社の田楽頭役は氏子の役なのではなく、荘園の名主に課せられる役なのである。田楽頭を差定していたのが耳西郷の荘官である政所であったのもこのことを示しているが、永禄九年(一五六六)に武田氏給人の一宮氏を頭人としたところ一宮氏が拒否して頭役を勤めなかったので、翌十年からは神主が頭を差定するようになったと記されており、差定権が荘園領主側から祭礼をする側に移っていく一歩として理解されよう。
写真278 弥美神社の王の舞

写真278 弥美神社の王の舞

 宇波西神社の頭制度については供僧と田楽頭についてしかわからないが、他の獅子舞・王の舞についても田楽と同じような頭制度がとられていたのではなかろうか。また三方郡山西郷の二十八所社においても、永禄五年に御幣村・上村・下村・王村・獅子村・田楽村・神子・下司および佐野村の神饌注文が作成されており、宇波西神社の田楽頭と似た制度が行なわれていたものと考えられる(資8 園林寺文書三四号)。そのほか現在も三方郡美浜町佐田の織田神社、同三方町向笠の国津神社、藤井の天満社、相田の天神社、成願寺の闇見神社、能登野の能登神社、田井の田由比神社や、小浜市若狭の椎村神社、さらに敦賀市沓見の信露貴彦神社(男宮)・久豆弥神社(女宮)において王の舞・獅子舞などが行なわれており、これらの祭礼も中世にさかのぼるものと考えられるが、文献史料で跡づけることができない。



目次へ  前ページへ  次ページへ