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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
     二 神事と祭礼組織
      「おこない」と頭
 社や堂が郷村によって維持されてきた理由は、そこで行なわれる祭礼がまさに郷村の繁栄を祈念する郷村の祭礼であったからである。神仏の前ではまことに多様な祭礼が行なわれており、いま仏教色の強い常楽会・法華八講会・大師講などを除いても、行(修正会・修二会)・神楽・歩射(祈のため神前で大的を射る神事)・流鏑馬・相撲・一物(神幸の行列の中心をなす特異な扮装をした童子)・延年(法会後の余興芸能)・田遊(農耕を模倣する予祝儀礼)・猿楽・田楽・獅子舞・王の舞・幸若舞などが行なわれていた。ここでは広くみられる行・歩射・流鏑馬・一物・猿楽について、中世史料に現われる寺社や在所を表62に挙げておく。このうち芸能として発達した猿楽については後述する(本章三節一参照)。

表62 中世史料にみえる越前・若狭の主な神事・祭礼

表62 中世史料にみえる越前・若狭の主な神事・祭礼

 表62に明らかなように、年頭あるいは春先に農作物の豊穣を祈願する神事である行は、地域や寺社の規模を問わず広く行なわれていた。農事祈願の共同体儀礼である行は仏教の国家隆昌を祈念する修正会・修二会の大枠のなかで執行されており、農耕を象徴する餅を供え、仏神の霊威を込めた護符である牛玉札が氏子に配られていた。大滝寺の修正会七日夜の行のときに僧たちに配分される餅や同晦夜の行のための樽などが、月尾・別院座・岡本・五箇(大滝神郷・岩本・不老・定友・新在家)に差定されており、行の餅や酒の負担は村人の役であった(資6 大滝神社文書五・九号)。永正十五年には今立郡水落神明社の正月十七日の「をこなゐ」を水落の町衆が勤めなかったので、朝倉氏の代官が命令して勤めさせることにしたとあり、町においても行が行なわれていた(資5 瓜生守邦家文書一六号)。さかのぼって南北朝期の延文四年(一三五九)の遠敷郡太良荘では、正月行始めのときに直会として下げられた餅八枚と、荘内二社(太良宮・日吉山王社)の行神事分の餅一九八枚・酒二斗が、領家方・地頭方の百姓から地頭代官の得分として納められることになっている(ハ函四三)。
 先に大谷寺の例を挙げて行を差配する者として二人の寺僧が「頭」に差定されていることを述べたが、同じく荘民に対しても順番に頭に差定して費用を負担させることが行なわれた。観応二年(一三五一)に三方郡二十八所社(弥美神社)では、「修正頭役料物」(修正会の頭役を果たすための米銭)が不足しているので山西郷大王丸名の年貢内二石を補助し、これからは「頭人」がそれを受け取って修正の社役を勤めるよう荘園領主が命じている(資8 園林寺文書二七号)。この頭人は寺僧の頭人とみるのが妥当であるが、郷民の頭人と解しうる可能性はある。ついで遠敷郡多烏浦の応安七年(一三七四)三月三日の天満宮神事頭役は、二人の頭人で勤めるはずが一人欠けたので、片頭として九歳の男子一人が勤めることとされており、住人が頭役を勤めている確実な史料として貴重である(秦文書九九号)。降って文明三年に南条郡大塩八幡宮の神主有景は、「正・五・九月之御頭下地三名徳分」の三〇石余を八人で配分せよと譲状に記しているが(資6 大塩八幡宮文書四・五号)、これは正月以下の三度の節供料を負担するものとしてそれぞれ一名が頭に差定されていたことを示している。さらに戦国期ころ、遠敷郡宮川新保の姫宮の正月五日・九月九日の神事においては、それぞれの神田が負担する分米一石六斗以外の費用は「名ニ付テ頭ヲ仕候」とあるように、頭として差定された名が負担していた(資9 清水三郎右衛門家文書一号)。



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