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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
     二 神事と祭礼組織
      荘園の堂社
 中世には右に述べたような有力な寺社とは違った、より小規模で村落に密着した寺社がたくさんあった。永享十二年(一四四〇)に大野郡小山荘の百姓たちが領主の大和春日社に提出した指出によれば、小山荘のうち大野盆地内の郷村では神社と堂がそれぞれ表61に示したような免田を認められていた(資2 天理図書館 保井家古文書五号)。この表から、まず総田数のうち仏神田が一四・五パーセントを占めていることが注目される。他の郷村の例を挙げると、室町期ころの総田数一一〇町八段余とされている三方郡耳西郷は、戦国期ころには寺社や堂のもつ田地が二六町六段余あるとされている(資8 宇波西神社文書二・八号)。また遠敷郡宮川保・同新保は鎌倉期の大田文では六五町四段余の田地をもつが(ユ函一二)、戦国期には一〇町八段余の神田・堂田があったことが知られる(資9 清水三郎右衛門家文書一号)。耳西郷・宮川保の例ともに参考にしかならないが、小山荘の仏神田の比率が決して特異なものでなく、むしろ平均的な姿を示していると考えてよいであろう。小山荘の仏神田のなかでは荘園領主の神である春日社の神田が大きな比率を占めるが、それでも最大の仏神田をもつ井嶋郷熊野神田三町には及ばず、仏神田全体の二割に達していない。春日社以外に神田をもつ社・宮としては、右の熊野社のほかに大杉社・荒嶋(荒島)社・篠蔵(篠座)社・天王宮・山王宮・エビス宮などがあり、堂としては地蔵堂・阿弥陀堂・薬師堂・弥勒堂・虚空蔵堂がみられるが、これらの仏神はいずれも現世・来世において利益や救済を与える仏神として小山荘の人びとに信仰されてきたものであった。

表61 永享12年の大野郡小山荘領家方の仏神田

表61 永享12年の大野郡小山荘領家方の仏神田

 これらの仏神田がどのように維持されていたのかについては、戦国期の例ではあるが、今立郡池田の恒安・月ケ瀬が共同で祀る社と堂であった小白山社・薬師堂の場合が参考となろう。この両社堂には領主の鞍谷氏や池田氏から代々認められた仏神田があり、天文六年(一五三七)には小白山宮山・田地一八〇歩(分米七斗五升)・宮廻田二斗五升・薬師堂屋敷・同歩射田畠半分・清水屋敷三〇〇文本が池田慈眼から安堵されている(資6 上嶋孝治家文書九号)。天文十一年に宮廻田が田中長重の給地に含められて没収されたとき、返却を求めて「村人わひ(詫)事」がなされたのでもとのように寄進され、村人は直会(神饌を飲食する儀礼)を行なうことができたという(同一一号)。また領主から安堵された堂田以外に牛玉田があり、もと清覚左衛門という百姓の持ち分として祭礼費用を負担していたが、「公方様」がこの地を没収したので村人は永正十八年(一五二一)に四貫二〇〇文の銭を支払ってこれを取り返している(同六号)。仏神田が個人の持ち分となっていたとしても、最終的には村の管理下に置かれていたことを知ることができる。堂の田地については、文明十三年(一四八一)に今立郡池田水海の上野村において道場屋敷地を「はつ」(法名めうれん)という女性が寄進しており(資6 鵜甘神社原神主家文書四号)、時代は降るが元亀三年(一五七二)に池田水海の小村である西村の惣代が地蔵田を小作に出しており、堂田が村の支配下にあったことがわかる(同二〇号)。また永正十一年に南条郡今泉浦において地下より給分として土地を与えられている別当は、別当持ち分に寺を建立するとあるところからしても、浦から扶持を加えられている社か堂の僧であろう(資6 西野次郎兵衛家文書一七号)。さらに天文二十四年の敦賀郡江良浦においては、社の神子・祝は神田がないため、領主から課せられる公事は浦が肩代わりしていると刀が述べている(資8 刀根春次郎家文書一三号)。これらはいずれも、社や堂を維持し、そこで神事・仏事を営む神職や僧を扶助していたのは村や浦であったことを示している。また、荘内の神社を荘民が維持している例としては太良荘が挙げられる。荘内の山王社の宜職をもつ永徳庵が修理を加えなかったため、荘民は嘉吉三年(一四四三)に永徳庵に修理催促をしたが承知しなかった。そこで荘民は一二貫文を集めて修復し、文安二年(一四四五)に棟上の費用五貫文のうち三貫文を永徳庵が負担すれば宜職を安堵すると相談をもちかけたが、永徳庵はこれも拒否したため、永徳庵の宜職の証文を取り上げ他の人に宜職を五貫文で売却し、その銭をもって棟上を行なったされている(ハ函二二〇・三八三・三八四、ニ函三三九)。



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