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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
     二 神事と祭礼組織
      有力寺社の祭礼
 今日県内で行なわれている祭礼は、中世後期にその原型をたどりうるものが少なくない。それはこの時代から惣村の発展を背景として郷村民が神事祭礼の担い手となり、彼らの氏子としての由緒や地位の確認を神事祭礼の場に求め、今日まで村落の伝統としてそれらを守り伝えてきたからである。むろん中世の祭礼は今日のそれとはかなり違った様相を帯びていたのであるが、そうした違いの一つとして、神仏習合を原則とする中世においては神事が仏教の影響下に置かれていたことが挙げられる。例えば、三方郡田井保の大乗寺は釈迦を本尊として安置する寺院であるとともに、鎮守山王・八幡・天満・弁才の五所(一所未詳)の霊社でもあると自ら述べており(『師守記』貞治六年八月十九日条紙背文書)、中世・近世において村々の神社や村堂の別当職を寺院がもっている例は特に若狭において広くみられる。したがって、以下においても神事祭礼という場合には寺院や村堂をも含めて述べることにする。
 まず古くから勢力をもつ密教兼修の丹生郡織田剣社・織田寺、丹生郡越知社・大谷寺、今立郡大滝社・大滝寺の神事・仏事が中世においてどのように行なわれていたかを簡単にみておこう。まずこれらの寺社では恒例の神事・仏事を行なうための仏神田が国衙・荘園領主より免田として認められており、それらの免田は「正月五ケ日三寸(御酒)料」「節供田」「愛染供田」などにそれぞれ指定されて、その神事・仏事の費用を負担した。大谷寺については免田のほかに商人からの上分銭があり、周辺の村々からの神楽銭上分米の収入もあった(資5 越知神社文書二六・四〇号)。後述するように、大野郡白山平泉寺のような大寺社においては、大野郡を中心に、たとえ寺領以外の荘園であっても正供米という形で上分を徴収していた(本章二節一参照)。
 他方で恒例の神事・仏事を担当する社家・供僧も決められており、例えば大滝寺の二季大般若講は、冬は院主から四人目老僧までの四人、春は五人目老僧から中間までの四人が担当すると定められており、この担当者を「頭」と称している(資6 大滝神社文書五号)。寺社において交替もしくは順番で神事・仏事を担当していく制度を頭と称することは一般的にみられることであり、大谷寺では正月十三日の講堂行は二人の僧が頭となって免田からの費用の徴収、御供の準備、饗応の調進など祭礼に必要な庶務を執行している(資5 越知神社文書二六号)。古くから勢力をもったこれらの寺社においては、このように祭礼は社家・供僧が順番に頭となるなどのやり方によって執行され、そのための費用も免田などによって保証されていた。すなわちこれらの寺社の祭礼は社家・供僧が主体となって行なわれていたのであり、郷村民が主体的に参加することは少なかった。



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