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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    四 家臣団編成
      同名衆
 同名衆は大きく二集団に分けられる。英林孝景以前の庶流と以後の分家である(図42)。一般に前者は在地名をもって姓とし、後者は朝倉を姓とする場合が多い。孝景以前の庶流としては、朝倉氏の祖である広景の三男孫三郎が松尾氏の祖となり、二代高景の子を祖とする庶流は阿波賀・向・三段崎氏を称した。阿波賀氏は永享九年(一四三七)ころ大口郷政所職人として「朝倉阿波賀」とみえ(「諸荘段銭注文」)、また文正元年(一四六六)には本庄郷政所職も兼併していた。三段崎氏の祖は「弾正忠月山」とあり(壬生本「朝倉系図」)、朝倉氏の庶子として将軍家に勤仕していたらしい(『太平記』、「御的日記」)。のちにその一流の三段崎安指が医者谷野一栢の養子となるにいたって三崎玉雲軒と改め、医薬を業とし、朝倉氏滅亡後は足羽郡北庄に移った。三代氏景の子では東郷・中島氏が分立し、いずれも一乗谷外に土着した。四代為景の子である遠江守頼景の子孫は代々土佐守を称して北庄城主となり、最後の北庄土佐守は天正二年(一五七四)一向一揆に滅ぼされた。五代教景(心月)の子には鳥羽豊後守が、さらにその次男からは勝蓮華氏が分立した。
 英林孝景以後の分家としては、孝景の兄弟に下野守経景・慈視院光玖・遠江守景冬(敦賀郡司)がいる。下野守経景の子孫は足羽郡安居城に居城して安居殿とよばれたが、最後の城主の孫三郎景健は天正元年の朝倉氏滅亡後に織田信長に降ったものの、翌二年には一向一揆に降伏しており、天正三年一揆平定のため再度越前に入国した信長によって滅ぼされた。孝景の兄弟のなかで特記すべきは慈視院光玖であろう。彼は僧体でありながら、すでに早く寛正二年(一四六一)に弱冠二〇歳で朝倉家の代官として河口・坪江荘の段銭徴収のため京都より越前へ入国しており、また文明元年(一四六九)には安居保に討ち入り一条家の荘園を侵略するなど、武将としての活躍が顕著である。兄孝景の越前平定過程のなかで、光玖は国中奉行として府中に在住し斯波氏の小守護代をその支配下に収めると、次に大野郡の郡司に転任した。孝景の死後は氏景や幼少で国主となった貞景をよく補佐し、のちには宿老的存在となった。
写真192 「朝倉義景亭御成記」(部分)

写真192 「朝倉義景亭御成記」(部分)

 英林孝景の諸子としては、すでに述べた四男景総のほか、六男時景が丹生郡織田城に居城したが、宗家に謀叛をおこして越前を追われたのち七男景儀が織田城主となった。孝景の末子教景は幼名を小太郎、のち宗滴と号した。朝倉景豊の謀叛をいち早く一乗谷の朝倉貞景のもとへ通報した恩賞として敦賀郡司に任命された。一八歳から七九歳まで自国・他国への出陣は一二回とみえ(「朝倉宗滴話記」)、軍奉行としても活躍した。弘治元年(一五五五)七月総大将として加賀の一向一揆討伐のための出陣中に病にかかり、一乗谷において病没した。なお永禄十一年(一五六八)足利義昭の義景屋形御成り(訪問)のさい、御礼に伺候した同名衆一九名がみえている(「朝倉義景亭御成記」)。



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