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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    二 朝倉氏歴代の領国支配
      朝倉義景
 孝景は治世三六年にして天文十七年三月二十二日に、足羽郡波着寺参詣の途中で頓死した。孝景の急死後、その子義景がわずか一六歳で家督を継承した。幼名は長夜叉丸、元服して孫次郎延景と称し、天文二十一年六月には将軍足利義輝の「義」の偏諱を受けて義景と改め、左衛門督に任ぜられた。
 貞景・孝景・義景の三代を補佐して朝倉氏の領国支配を支えてきた朝倉教景(宗滴)が弘治元年(一五五五)に病没すると、朝倉氏の領国支配にも大きなかげりが生じてきた。強力な補佐を失った義景は、その武威を国内に示すかのごとく、永禄四年(一五六一)四月六日に三里浜南部の坂井郡棗荘大窪ノ浜において、「御伴人衆一万余人、馬場の広さ八町、見物の貴賎その数を知らず」という大規模な犬追物を興行した(「朝倉始末記」)。翌五年の中秋の初めには大覚寺義俊が京都から下向した。旅泊の寂しさを慰めるため、八月二十一日に一乗脇坂尾、すなわち阿波賀河原において盛大な曲水の宴が張られた。当日の参会者には、義俊など京都の文化人をはじめ、朝倉義景やその一族・家臣が列した(「一乗谷曲水宴詩歌」)。先の犬追物といい、この曲水の宴といい、華美と盛大さを好む義景の性格の一面がしのばれる。
図42 朝倉氏系図

図42 朝倉氏系図




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