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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    二 朝倉氏歴代の領国支配
      朝倉孝景(宗淳)
 永正九年三月二十五日、貞景が鷹狩りの路次において急死したあと、嫡男孝景が国主を継承した。このころ隣国美濃では守護土岐氏と守護代斎藤氏の闘争が舟田合戦以来続き、その内紛に敗北した斎藤利良が土岐政頼を擁して永正十五年に越前へ逃亡してくると、孝景は兵を美濃に乱入させて利良・政頼を美濃に帰国させ、その後も大野郡穴馬・石徹白から美濃国郡上郡へしきりに兵を進めた。また、近江北部の浅井氏や若狭武田氏の外敵からの擁護や朝倉氏の勢力拡張にも孝景は積極的に派兵した。
写真185 朝倉孝景(宗淳)書状(龍澤寺文書)

写真185 朝倉孝景(宗淳)書状(龍澤寺文書)

 父貞景の代にほぼ確立した朝倉氏の政権は孝景の代にいたってほぼ安定し、勢威は領国の内外にまで及んだ。やがて幕府も朝倉氏の実力を認めるところとなり、永正十三年には再任した将軍足利義稙より白傘袋ならびに毛氈鞍覆を免ぜられ、大永八年(一五二八)には十二代将軍義晴の御供衆に加えられ、天文四年(一五三五)塗輿御免となり、同七年には相伴衆に列し、同四年十一月の後奈良天皇の践祚には一万疋を献じた。ここに朝倉氏は名実ともに越前の戦国大名として君臨した。
 朝倉氏の全代を通じて最大の敵は加賀の一向一揆であり、朝倉氏との宿命的な対決が続いた。このような朝倉氏と本願寺との対決のなかで、孝景の弟右衛門大夫景高が反朝倉勢力の本願寺と結ぶ内紛がおこった。大野郡司の景高は、公家三条西実隆家の家領大野郡田野村の年貢を送付する代わりに実隆から文芸の伝授を受けるなど、京都の公家や幕臣と深い親交を結んでいた(『実隆公記』大永三年十一月二十三日条など)。天文九年九月、幕臣伊勢貞孝邸における楊弓の会に参会した景高と奉公衆の本郷常陸介が、将軍足利義晴の怒りにふれて出仕停止の処罰を受けたことを喜んだ朝倉孝景が、朝廷へ御所修理料として一〇〇貫文、将軍家へ五〇貫文を進上して景高の追放を幕府へ願い出ており(『大館常興日記』同年九月二十三日条)、当時孝景と弟の景高が不和であったことを物語る。この結果若狭の武田氏に身を寄せた景高は、武田氏の支持を得て反朝倉勢力の本願寺と結び宗家を倒そうとした。景高は本願寺に書状を送り、末代まで本願寺門徒になること、越前国のうち三郡を本願寺に進上すること、誓紙を提出することの三か条を約束した(『天文日記』天文十年九月三日条)。しかし本願寺はこれに同意せず、同十二年四月、景高の西国への没落となって落着した。



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