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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    二 朝倉氏歴代の領国支配
      朝倉貞景
 三代国主朝倉貞景は、長享・延徳の訴訟に勝訴して越前国宗主権を獲得し、強大な軍事力を背景に支配組織を整備するなど領国支配権の基礎を確立し、さらに領国外へも兵を進めた。その最初は美濃出兵であった。文明十一年(一四七九)、美濃国守護代の斎藤妙椿が養子の利国に家督を譲って死去すると、妙椿が守護家の重鎮であっただけに、守護土岐家の内紛が表面化し、美濃の文明の乱がおこった。この内乱の結果、守護家の実権は守護代斎藤利国の手中に入り、これを背景に朝倉氏と斎藤氏の政略結婚が進められた。しかし下剋上の常、斎藤利国の配下の小守護代石丸利光が主家に代わって実質的な権力を掌握しようとして利国から離反した。明応四年(一四九五)におこった舟田合戦は、美濃一国に限らず利害関係を有する尾張・近江・越前など近隣諸国までも争乱に巻き込んだ。朝倉氏も斎藤氏の要請に応じて出兵し、翌五年の合戦でついに石丸父子を自殺させて舟田合戦は終結した。また明応二年閏四月の細川政元のクーデターにさいしても朝倉氏は出兵し、このクーデターのため越中に逃れた前将軍足利義材が再起して越中から上洛を企てて同七年九月一乗谷に着くと、義材をここに約一年間滞在させるなど中央の政変にも関与した。
写真184 南条郡慈眼寺(今庄町小倉谷)

写真184 南条郡慈眼寺(今庄町小倉谷)

 長享・延徳の訴訟を乗り切った貞景にとって第二の危機は、敦賀郡司朝倉景豊がその縁者である朝倉元景(景総)らと結んでおこした謀叛であった。文明十六年七月十二日、英林孝景の四男孫五郎景総は相撲に事寄せて弟の教景(法名以千宗勝)を殺したので、教景を猶子(養子)としていた慈視院光玖が立腹したという(『雑事記』同年八月八日条)。これが原因で景総は南条郡慈眼寺へ駆け込み剃髪して僧となったが、教景の母の激しい憤りによって越前を落去せざるをえず、管領細川政元に仕え朝倉弾正忠元景と改名したという(「朝倉始末記」)。ただし元景は明応五年におこった美濃の舟田合戦に朝倉方の武将として出陣しているから、「朝倉始末記」の記事が事実としても、元景の上京は舟田合戦以後のことになろう。敦賀郡司景豊はこの元景の娘婿にあたり、鳥羽氏・勝蓮華氏や氏景の弟朝倉教景(宗滴)の妻も景豊の娘となることから、これらの縁者の加勢を期待しての謀叛であった。しかし朝倉教景はこれに従わずに一乗谷の貞景に注進した結果、貞景はただちに数千騎を率いて敦賀城を包囲した。景豊の縁者は一人も同心せず、敦賀城は落城して景豊は滅亡した。文亀三年(一五〇三)四月三日のことであった。景豊と呼応して京都より攻め下った朝倉元景も救援に間に合わず、やむなく加賀に入って反朝倉勢と結び、翌永正元年(一五〇四)八月に越前北部に侵入した。しかしこれにも敗北し、翌二年四月四日に能登国春木の斎藤館で失意のうちに病死した。



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