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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    一 長享・延徳の訴訟
      延徳の訴訟
 延徳元年三月に将軍義尚が死去したのち、一時的に将軍職に復帰した義政も翌二年正月に相ついで他界すると、応仁の乱で西軍に擁立されていた義視・義材(義稙)が没落地の美濃国から上洛し、七月に義材は第十代の征夷大将軍に任ぜられた。新将軍義材にとって最初の事業は、前将軍の意志を継承した近江六角氏征伐であった。翌三年七月に近江出陣を内定し、八月二十五日に朝廷より綸旨を受けて征討の途についた。率いる軍勢は「常徳院殿御出陣に百倍なり」ともいわれ、前将軍義尚のそれをはるかにしのいだが、諸大名にとっては誠に迷惑な再出陣であった。
 将軍の催促に応じて尾張の斯波義寛は再び大軍をもって上洛したが、朝倉氏は斯波氏との衝突を避けるためか参陣しなかった。しかし越前の「朝倉進退」や朝倉の「直奉公分」については、やはり近江出陣と前後して再燃した。将軍義尚・義政の相つぐ死去と新将軍の就任によって、事態の好転または先の裁定が白紙に戻ったと考えての斯波方の再工作と考えられるが、その背景には、その年の四月に朝倉貞景と美濃守護代斎藤利国の娘との婚儀が成立して越前・美濃との連携が強化されたことにより、尾張の斯波・織田方が強い危機感を抱いたからでもあろう。
写真183 京都斯波邸(上杉家本「洛中洛外図屏風」)

写真183 京都斯波邸(上杉家本「洛中洛外図屏風」)

 斯波方の提訴に応じてか、管領細川政元の被官である上原豊前守父子が五か条の調停案を両者に提示した(「朝倉家記」所収文書)。朝倉方では、五か条のうち、越前は朝倉成敗、尾張は織田成敗、遠江は甲斐成敗とする三か条は認めても、二宮氏の越前大野郡競望と朝倉貞景の斯波氏参仕についての二か条は到底容認できるものではなかった。これを履行させようとする斯波義寛の強い要請によってか、十月十一日には「越前朝倉孫次郎貞景退治」の将軍御内書が義寛に下知され、将軍の越前遠征まで噂された(『蔭凉軒日録』同年十月十一・十二日条)。しかし六角氏と対陣中の将軍はもちろん、斯波軍も越前討伐に動くことはできなかった。
 翌四年二月、六角氏が関東に没落して近江出陣が一段落すると、越前朝倉氏の進退が再び問題となった。そして、「越前国事は、浦上・織田申合せ、朝倉は国を退き、屋形(斯波義寛)元の如く入国すべき分、治定の由」と噂されるようになった(『雑事記』同年二月二十一日条)。朝倉氏にとっては一大事であった。三月八日、朝倉方は在京する朝倉景冬に、応仁・文明以来の将軍御内書や細川勝元書状を含む二九通と、それについての朝倉光玖の説明書を送付して幕府での訴訟にそなえた(「朝倉家記」所収文書)。訴訟はかつて朝倉孝景の東軍勧誘に尽力した浦上美作守がとりもち、越前方雑掌は平泉寺法師西蓮坊であったが(『蔭凉軒日録』同年四月十日条)、裁決の結果は未詳である。おそらく先に示された上原父子の調停案とほぼ同様のものであったと思われる。
 ところで上原父子の調停案の最大の問題点は、第五条の斯波氏への参仕であろう。斯波氏参仕を履行したうえで、貞景が将軍奉公を望むならば、その半年後か一年後に調法すべきとする条項である。斯波氏への参仕について、貞景は斯波義敏の子息義寛を忌避し、斯波義廉の子息(義俊か)への参仕をもって条項遵守を主張したのではなかろうか。斯波義廉の子息はすでに文明十三年に越前に入国しており(『雑事記』同年十一月四日条)、延徳二年五月に越前に下向した歌人正広は、七月二十三日には板倉備中入道宗永のもとで右兵衛佐義廉の子息栄棟喝食と対面して歌会を催しているから(「松下集」)、当時越前に在住していたことは明白である。義廉の子息はそののち今立郡鞍谷荘に居館を構え、子孫は鞍谷殿とよばれ、朝倉氏と婚姻を重ねて客臣化した。



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