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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    一 長享・延徳の訴訟
      長享の訴訟
 長享元年に始まり延徳四年にかけて両度にわたっておこった斯波義寛との間の越前の支配権をかけた訴訟は、朝倉家にとっても一族・被官の浮沈にかかわる大事件となった。この両度の訴訟に対し、朝倉方が幕府に提出した支証文書や上申書(朝倉陳状)とその関連文書を一括して収載している「朝倉家記」があるので、これらの史料にも依拠しながら訴訟の推移をみておきたい。
写真182 「朝倉家記」(部分)

写真182 「朝倉家記」(部分)

 斯波家の家臣でありながら寺社領荘園を押領し越前一国を進退する朝倉氏を排除すべしとする斯波義寛の主張は、近江出陣の名目に照らしてもまさに正論ではあるが、当面の敵である六角氏を目前にする幕府にとっては誠に迷惑な訴訟であった。そこで幕府は、この機をうかがい越前侵攻を試みようとする甲斐氏をまず停止させ(『雑事記』長享元年十月二十二日条)、十一月二日には管領細川政元が将軍の命として「越前国事、朝倉は忠節を以て奉公に罷り成り候間、今に於いて其の分たり、国の事ハ、武衛へ名代を進じ、守護代を彼の名代相抱え、国の公用銭を定められ、落居候はば然るべきの由、上意として申すべき旨、仰せ出さる」と伝えた(「朝倉家記」所収文書)。この裁決は、まず朝倉は斯波の家臣ではなく直奉公分(将軍直属の家臣)であることを確認しながらも、越前の国支配については朝倉は斯波氏の守護代の地位にあるとしている。当時の記録には、将軍は和与を勧めたがそれ以上は関与しなかったとか、この件はほぼ無事に落着したらしいとのことが記されている(『雑事記』長享元年十一月七・十二日条)。しかし斯波義寛方はこれに納得せず、尾張国守護代の織田敏定は同月十一日に義寛の意向を代弁して幕府に長文の返書を送った(「朝倉家記」所収文書)。文面は、応仁・文明の大乱中の朝倉氏に対する幕府方の計略に筆をおこして斯波方の無念の思いを切々と述べ、越前国宗主権の回復は時節を待つとしても、朝倉氏と対等に幕府に出仕することだけは三管領の一家である斯波家としては到底容認できないと、特に朝倉氏の直奉公分に強い反発を示した。
 これに対し朝倉貞景は、十二月二十四日に逐一反論する九か条の上申書を坂本在陣の朝倉景冬のもとに送達し、細川政元の被官上原豊前守を通して幕府に提出した(同前)。文面は、朝倉一族・家臣の犠牲のうえに越前平定がなされたこと、斯波義敏を用いないとの盟約を守るなかで斯波家には礼を尽くしたこと、そして朝倉氏の祖先は将軍の直臣であったことを強調するとともに、文明三年(一四七一)五月に朝倉氏景が東軍に帰陣したさいに直接将軍の謁見を受けたことにより直奉公分に認められたと主張している。長享元年十二月二十九日に北国より帰寺した興福寺大乗院寺官の楠葉元次は、朝倉氏は将軍より直奉公分に定められたと報告しているが、「武衛との間事ハ一決せず」と結んでいるように(『雑事記』長享二年正月三日条)、斯波方の強い不満を残しながら朝倉方の主張が一応認められた形で終わった。当時、足利義政は戦乱をよそに東山山荘の造営に意を尽くしていた。その東山山荘に、翌二年二月、朝倉景冬が仙洞御所の松を移植する役を勤めたのは(『蔭凉軒日録』同年二月二十三日条)、勝訴した朝倉方の手伝い普請であると同時に、朝倉氏の直奉公分としての勤仕をも意識していたのであろう。



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