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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    一 長享・延徳の訴訟
      将軍の近江出陣と朝倉氏
 朝倉氏景の死後わずか一三歳の若さで家督を継承した貞景は、大叔父である慈視院光玖らの後見のもとに着々と国主として成長し、延徳三年(一四九一)四月二十日には一九歳の貞景に美濃国守護代斎藤利国の娘(一三歳)が嫁した。美濃からの付人の騎馬五騎・走衆三〇人や中間・小者などに対する引出物をはじめ婚礼の盛儀に費やされた額は、実に二万貫に達したといわれる(『雑事記』同年五月四日条)。貞景は初め孫次郎と称し、永正元年(一五〇四)閏三月八日に弾正左衛門尉に任官された。若年で国主となった貞景にとって最初の試練は、長享元年(一四八七)の将軍足利義尚の近江出陣に端を発しておこった斯波氏との間の越前国宗主権をめぐる訴訟問題であった。近江出陣とは、応仁・文明の大乱以来、近江の六角高頼によって押領されていた寺社領・諸荘園の回復を望む幕臣や公家・寺社本所らの要求を容れての出兵であったが、義尚の将軍としての権威を天下に誇示することもそのねらいであった。
 長享元年八月に足利義尚は在国の諸将に近江出陣を命じ、翌九月十一日にその先触れとして、まず伊勢貞陸が騎馬一〇〇余騎・軍兵数千を率いて近江坂本に下向し、翌日には将軍自らが近習・番衆数千人とともに出陣した(『長興宿記』同年九月十一日条、「常徳院江州動座当時在陣衆著到」)。将軍の命に応じて、尾張からは斯波義寛(義良)が数千騎の軍兵を率いて十月五日に坂本に着陣し、朝倉方も先兵として敦賀郡司の朝倉景冬が同月十九日に坂本に着陣した。ここに斯波氏と朝倉氏は期せずして仇敵どうしの参陣となった。潜在的な越前国宗主権を自認している斯波氏が、それを押領したとする旧被官の朝倉氏と対等に参陣することは、到底容認できるものではなかった。義寛はただちに越前国宗主権回復のため「朝倉進退」について幕府に提訴した。このため、近江出陣をめざして一乗谷を出陣した朝倉貞景は、大軍を率いたまま敦賀に待機した。



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