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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
     五 武田氏の丹後経略
      武田元光・信豊の丹後出兵
 大永六年十二月、武田元光は細川高国の要請で大軍を率いて上洛した(「二水記」同年十二月二十九日条)。当時の細川家では一族・家臣の対立が深刻で、反高国派の国人らが丹波や阿波から上洛の構えをみせていたため、高国が元光に協力を求めたのである。武田軍は本隊一〇〇〇騎のほか、粟屋一族五〇〇騎を数えた(『言継卿記』大永七年二月十二日条)。これだけの大軍が若狭を留守にすることは宿敵一色氏にとって侵攻の好機に他ならず、若狭では大永七年二月ごろ丹波勢出張が噂された。この情報を国もとの子息信豊から聞いた元光は、高浜に配備した粟屋元勝ともよく相談して警戒を怠らないよう指示している(資2 尊経閣文庫所蔵文書四八号)。上洛した武田軍は、二月十三日の桂川合戦で大敗北を喫した。この武田氏の混乱に乗じて四月、若狭の浦々に丹後水軍が来襲し略奪や放火をした。三方郡御賀尾浦(三方町神子)は、四月四日に午前六時と同一〇時の二度にわたって襲撃を受けた。遠敷郡の小浜や西津荘では郡内の木を切り尽くして乱杭や逆茂木を築いたと伝える。武田氏は軍勢を丹後加佐郡に送るとともに、越前朝倉氏の支援を仰いだ。ところが朝倉勢は三方郡で乱暴を働き、これを聞いた遠敷郡の人びとが進入を阻止する構えをみせたため、朝倉勢は越前に引きあげたという(資8 大音正和家文書二二八号、資9 羽賀寺文書二七号)。
 元光はこのあとも天文四年・同五年・同七年の少なくとも三回丹後に出兵しているが、同四年は十月に、同五年は五月にともに田辺(京都府舞鶴市)に出陣したことが知られる程度である。同七年は、白井光胤が七月十五日に由良浜(京都府宮津市)で、十一月十五日には水間村でそれぞれ戦っており、この間若狭では十月十日と十一月二十七日に陣夫が徴発されている(資2 白井文書二四・二七号、資9 羽賀寺文書二七号、明通寺文書一三七号)。以上の三回の出兵の事情はいずれも未詳である。
 信豊の丹後出兵は、天文二十年から翌二十一年にかけての一回だけ確認されている。天文二十年六月二十四日、信豊から若狭によび出された丹後田辺の代官浜某が、海路帰る途中に信豊の命を受けた山県氏によって殺された。このため浜の子息左京進が、加佐郡で武田氏から給地を得ていない牢人を募り九月ごろ挙兵した。そこで武田氏は大軍を加佐郡に送って鎮圧に努めたが苦戦を強いられ、翌二十一年の春には信豊自ら高浜城まで出陣している(資9 羽賀寺文書二七号、「神宮寺旧記」)。その後の経過はわからないが、明通寺門前百姓が陣夫勤仕を拒否して同寺の「御せつかん(折檻)」を受けたのも、武田氏が若狭一国に徳政令を出したのもともにこの年のことであり(資8 大音正和家文書二四二号、資9 明通寺文書一三三号)、たび重なる武田氏の外征が、若狭の諸階層に多大の負担を強いるものであったことだけは間違いない(本章四節二参照)。
 以上みてきた武田氏の丹後出兵のうち、永正三年・同四年の場合は武田氏側からの積極的な侵略であったし、同十四年の出兵も直接的契機こそ延永氏の若狭侵攻にあったとはいえ、朝倉氏の支援のもと丹後を奪取せんとする意図にもとづくものであったといえよう。しかしそれ以後の軍事行動は、水軍来襲に対する報復戦(大永七年)や牢人一揆鎮圧のための出兵(天文二十年・同二十一年)など、いわば受動的なものであり、概して加佐郡の占拠地域の確保をめざす程度のものではなかったろうか。このころの武田氏に、新たに領土拡張を企図する実力はすでに残ってはいなかったのである。



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