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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
     五 武田氏の丹後経略
      武田元信の丹後出兵
 武田氏と一色氏は、武田信栄が一色義貫を謀殺してその遺領若狭守護職を得たことに加え(三章二節一・四参照)、応仁の乱のとき一色義直から没収された丹後守護職が一時武田信賢に与えられながら、のち一色氏に返付されたこともあって(本節一参照)、互いに強い不信感を抱く宿怨関係にあったといえる。さらに若狭と丹後は境を接しているため両氏の間には常に軍事的緊張が存在し、何かきっかけがあるとただちに武力衝突につながった。こうした事情から武田氏の丹後出兵はいく度となく繰り返され、先にふれた文明元年(一四六九)の出兵も含めると、史料で確認されるだけで八回を数える。以下、武田元信以降の出兵についてそれぞれ様相をながめてみよう。 
写真180 大飯郡中山寺(高浜町中山)

写真180 大飯郡中山寺(高浜町中山)


写真181 延永春信禁制札

写真181 延永春信禁制札

 元信の代になって初めて丹後に侵攻したのは、永正三年(一五〇六)のことである。丹後ではこの年三月ごろ武田氏出兵がささやかれ(『宣胤卿記』同年四月一日条)、四月には元信が大飯郡中山寺に戦勝を祈願し(資9 中山寺文書一九号)、六月には管領細川政元の協力で出兵容認の御内書も出された(「御内書案」)。武田軍の行動開始時期は未詳ながら、武田氏の部将粟屋親栄は七月二十八日には由良川を越えて天橋立近くの神津(所在地未詳)に着陣している(『再昌草』)。合戦は八月三日に始まり、その日の戦いで武田方は大敗し数百人が討たれたという(『宣胤卿記』同年十二月七日条)。しかし、九月二十四日には援軍として入った丹波守護細川澄之勢と協力して如願寺付近の山城に夜討ちを敢行し、一色軍を破っている(資2 白井文書五号、「諸家文書纂」)。そののち戦闘は確認されないが、武田勢は在陣費用支給も滞るなかで丹後占拠を続けていたものと思われる(資2 白井文書六号)。翌四年四月、細川氏は惣領政元をはじめ重臣赤沢宗益らが大挙して武田氏支援のため丹後に下ったが、五月十一日の合戦でまたも武田方が敗北し、同二十五日には細川政元が上洛してしまった。さらに加悦城を攻めていた細川澄之の率いる丹波勢も城将石川直経と講和して帰陣した。ただ府中(京都府宮津市)では、今熊野城の一色義有本隊および阿弥陀ケ峰城の延永勢と両城を囲む武田・赤沢勢とが対峙した状態のままであった(『多聞院日記』同年四月二十七日・五月二十五・二十八日条、『宣胤卿記』同年四月二十七日・五月十一日条)。ところが、細川政元が京都で家臣に殺されたとの報が六月二十五日に丹後在陣中の細川勢にもたらされたため、赤沢は一色氏と和睦し、翌日宮津城まで退いたところ、二十七日政元の死を知った石川氏らが挙兵し、普甲谷で再び合戦となった。ここで粟屋親栄や赤沢以下数百人の戦死者を出した武田・細川軍は、若狭・丹波へ退却せざるをえなかった(『多聞院日記』同年六月二十七日条、『実隆公記』同年六月三十日条、『再昌草』)。
図41 武田氏の丹後経略関係図

図41 武田氏の丹後経略関係図

 丹後では、永正十三年八月から内乱状態となった。すなわち、守護一色義清の実権が失われるなか、義清を奉じる重臣石川直経と、義清の一族一色九郎を戴く守護代延永春信の両派が衝突したのである(「東寺過去帳」)。そして翌十四年三月ごろになると、武田元信は若狭にも「雑説」(不穏な噂)があるとの情報を得ている(資2 朽木家古文書四三号)。はたして五月ごろ延永勢が若狭に侵入し、大飯郡和田まで攻め込んだ。元信はさっそく越前の朝倉孝景に救援を依頼する一方、幕府に運動した結果、武田への支援を命じる御内書が出された(「御内書案」)。孝景は朝倉教景(宗滴)の率いる援軍を急派して六月中には延永勢を丹後に押し返し、倉梯城に包囲した。このころ、朝倉氏一族の景職や武田氏家臣の逸見・本郷氏らが大飯郡高浜城の防備を固める一方(資2 本郷文書一四八号、「当国御陳之次第」)、丹後では白井清胤らの軍勢が余戸(京都府舞鶴市)に展開するなど、攻勢を強めていた(資2 白井文書一〇号)。八月に倉梯城が朝倉勢によって陥落したあと(「御内書案」)、丹後加佐郡の延永与党が九月初旬ごろ国境を越えて若狭に侵入したものの、それも本郷氏らに討たれた(資2 本郷文書一四九号)。こうして武田・朝倉方は次第に延永方を圧迫していき、白井清胤が九月二十二日に堤篭屋城、十月十一日に吉沢城を攻めるなど(資2 白井文書一三・一四号)、戦線は西の竹野郡にまで伸びた。
 その後の交戦記録はなく、どのような形でこの合戦が決着をみたのか未詳であるが、武田氏はこの出兵で、加佐郡については一部地域に限られるとしても一定程度の実質的支配権を獲得したとみられる。そのことは、例えば永正十七年白井清胤が武田元信から加佐郡水間村(京都府舞鶴市)を安堵されていること、その清胤が大永二年(一五二二)に「加佐郡輪番人夫」の賦課を武田氏に申し入れていることなどからうかがうことができる(同一五・一六号)。こうして武田氏としては初めて出兵の成果を得ることができたが、加佐郡の人びとにとっては隣国大名の侵略・占拠に他ならなかった。



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