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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
     四 朝倉氏領国の成立
      朝倉方の大勝利
 両軍対陣中での孝景の死は、朝倉方においては大きな打撃となった。しかし孝景の死後、朝倉宗家を継承した嫡男氏景は、慈視院光玖・下野守経景・遠江守景冬らの叔父をはじめとした一族の強力な団結のもとに朝倉政権の確立に努めた。前年以来、九頭竜川以北にまで侵攻されて苦戦していた朝倉方も次第に勢力を挽回し、「越前国事、朝倉方打勝つ、甲斐方・屋形方は一人も無し、今月十五日、悉く以て国中を開き加賀国に没落す、豊原・平泉寺も心替わりして朝倉方に成る」とあるように(同 同年九月二十四日条)、孝景死後二か月にして朝倉方は完勝し、反朝倉勢をことごとく国外に追放した。ここに越前における実権を掌握した朝倉氏は、その年の十月には、美濃国守護代の斎藤妙純(利国)の調停によって「斯波義廉之息(子息)」を名目的な主人に推戴して越前に迎え入れ(同 同年十月六日・十一月四日条)、十一月に氏景は幕府に対して代替りの御礼を行ない、実質的に越前国主の地位を掌握したことを国の内外に示すことによって、朝倉氏の実質的支配が完遂したのである。
 その後も再三にわたって加賀から越前侵攻を試みたものの撃退される結果となって越前回復の不可能を悟った義良は、同十五年三月十九日に尾張へ移った(『親元日記』同年四月九日条)。その直後、甲斐氏と朝倉氏の和談が行なわれ、越前国守護代は朝倉、遠江国守護代は甲斐、尾張国守護代は織田がそれぞれ受けもち、主人として斯波義廉を仰ぐことで無事収まったとされ(『雑事記』同年四月三十日条)、朝倉氏の越前支配権が確立した。氏景は治世わずか六年にして文明十八年七月四日、三八歳の若さで没した。



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