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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
     四 朝倉氏領国の成立
      反朝倉勢力の越前侵攻
 文明五年(一四七三)、両軍の巨頭である山名持豊・細川勝元が相ついで死没すると、応仁の乱も慢性的となり、在京の諸将も合戦に飽いて続々と帰国していった。西軍の大内政弘が将軍義政と単独で和睦して帰国し、足利義尚も将軍職を継承すると、文明九年十一月、一一年間にわたって戦われた中央の戦乱もようやく終息した。このような中央の情勢変化のなかで、越前における朝倉氏と甲斐・二宮氏らとの対立関係は決定的となった。かつて朝倉氏に擁立されていた斯波義良は甲斐・二宮らに推戴され、越前をほぼ制圧した朝倉氏に対抗して反朝倉陣営を固めていった。
 文明十一年閏九月四日、斯波義良・義孝は甲斐・二宮ら反朝倉勢を引き具し、「朝倉退治」と称して越前に進発した。『長興宿記』がいうように、越前の公家・寺社領を押領した朝倉氏征伐を名目とする進発であった。これに期待をかけた当時の公卿の各日記類は、この義良の出兵をいっせいに伝えている。十月一日に坂井郡豊原寺へ斯波義良・同義孝や甲斐勢が入部して合戦が行なわれ、豊原寺や大野郡平泉寺の朝倉方法師が自焼したとみえており(『雑事記』同年十一月二十七日条)、越前において合戦が開始された(「当国御陳之次第」)。
 当初敗色の濃厚であった合戦も翌十二年に入ると、朝倉慈視院光玖が大野を堅持し、平泉寺・豊原寺の法師たちが次第に朝倉に降参していると報じられ(『雑事記』同年四月七日条)、大野郡での戦況は好転したが、「朝倉と甲斐・屋形合戦度々に及ぶ間、坪江・河口庄の迷惑は申すばかり無し」と本所の興福寺大乗院を嘆かせたように(同 同年八月三日条)、主戦場は大野郡から坂井郡に移り、合戦は一進一退を繰り返しながら翌十三年に入った。そしてその年の七月二十六日、朝倉氏中興の祖孝景はその対陣中に腫れ物を患い、五四歳で没した。



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