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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    三 朝倉孝景の越前平定
      大野郡の平定
 越前の平野部をほぼ平定した朝倉孝景は、翌七年に入るといよいよ大野郡の平定に着手した。大野郡は、斯波義敏の祖父満種が室町初期に加賀国守護職を奪われてここに本拠を移して以来代々その知行所となり、二宮信濃守が大野郡司を務めた。義敏が越前守護職を継承して在京すると、二宮信濃守が「我意」をもって大野郡を押領したため、寛正五年(一四六四)に義敏の父の修理大夫持種はその返還を幕府に訴えている(『蔭凉軒日録』同年十一月三日条など)。このようにして、残された敵は大野郡に拠る二宮氏だけとなった。孝景は、「惣国の敵を大野郡一か所へ追篭めて根絶すべき覚悟」をもって大野郡攻略を開始したのである(「朝倉家記」所収文書)。
 まず文明七年二月十四日夜に犬山城夜討ちが行なわれ、印牧広次が功名を馳せた(「題朝倉英林居士与印牧広次書後」『幻雲文集』)。ところが、中立を保って佐開に在館していた義敏が四月十日の夜に二宮氏が立て篭もる土橋城に入城したため、事態は急変した。前年の十二月、東軍に帰順した甲斐氏や二宮氏と義敏は協調して反朝倉態勢を固めたからである。将軍より義敏一身の保護を求められていた孝景としては、土橋城の直接攻撃は避けざるをえず、七月二十三日に城内の敵勢を井野部郷まで誘い出して合戦し、二宮将監とその弟の駿河守ら一五〇人を討ち取った。孝景は義敏に土橋城からの退城を勧告し、将軍も御内書を下付して退城を命じたが、義敏はこの命に応じようとしなかったため、孝景は意を決して十一月三日に土橋城に総攻撃を懸けた。激しい合戦のなかで身の危険を感じたのか、義敏は十二月三日についに土橋城より出城したので、孝景は諸般の準備を整えて義敏を上洛させた。こののち二宮党も国外に逃亡して、大野郡は朝倉氏によってほぼ平定された。



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