目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    三 朝倉孝景の越前平定
      越前中央部の平定
 文明三年(一四七一)五月、公然と東軍に帰順して越前平定に着手した朝倉孝景にとって、越前内外の情勢は、当初必ずしも有利な状況ではなかった。そのため孝景は将軍を通じて、加賀の国人額田氏や狩野氏が孝景に合力するよう画策した。ところが富樫幸千代を擁して富樫政親と対立する彼らはこれに応じなかったため、孝景は幸千代に富樫氏の家督を継承させるための御教書が下付されるよう工作した。しかし、高田門徒に擁立された幸千代は文明六年十一月、本願寺門徒と結んだ政親によって滅ぼされ、孝景の意図は実現しなかった。
写真179 「当国御陳之次第」(部分)

写真179 「当国御陳之次第」(部分)

 文明三年、東軍となった孝景の越前における最初の合戦は、六月十日の今立郡河俣(鯖江市河端町)出陣であった(「当国御陳之次第」)。翌十一日に幕府は上杉房定や織田伊勢守・同駿河守に対し朝倉孝景への支援を命ずる御内書を下付してはいるが(「昔御内書符案」)、加賀からの合力も思うようにならず、かなりの苦戦であったらしい。七月二十一日の合戦では朝倉方は小勢で甲斐方に惨敗したが、これは孝景が「国司と称し立エホシ(烏帽子)・狩衣等ニテ殿上人と成る、緩怠の振舞、是非無し」という態度をとったため、国の武士がことごとく背いたからであるとされ、「今度の一天下の乱ハ教景(孝景)の所行、天罰を蒙る風情の由」と世間は孝景に悪評を加えている(『雑事記』同年八月五日条)。
 東軍に帰順して越前平定に乗り出した朝倉孝景にとって一番気がかりなのは、同陣営となった斯波義敏の軍事行動であった。両者が共同戦線を張れないことを察知した将軍は、同年五月二十一日に孝景に越前守護職の御内書を下付すると同時に、当時大野郡佐開に逼塞していた義敏に対しては、孝景が合戦を開始しても義敏は行動をおこさないよう、また二宮将監には計略をめぐらすよう命じた。このためか同年十月二十一日付某書状は、義敏はいまだ朝倉と一味していないが義敏の内者たちはほぼ朝倉に味方したらしいと伝えている(『雑事記』裏文書)。当初は劣勢であった朝倉方も、このような状況の変化に乗じて同年八月に大反撃を開始した。これは、「八月廿四日ニ、海道鯖江上野・新庄保鴨宮、一日両所合戦、勝利を得、敵弐百余人討捕候、甲斐新左衛門を始め、肝要な首ばかり舟ニて若州を通り京進仕り候」とあり(「朝倉家記」所収文書)、朝倉方の大勝利となった。「去月廿日余比、甲斐・朝倉合戦」とあるのが、この合戦のことであろう(『雑事記』同年閏八月十六日条)。閏八月九日、これに対する将軍足利義政の感状が孝景に下付された。この将軍の感状とともに、閏八月四日付孝景充ての斯波道顕(持種)感状も発給されている。この道顕の感状が出されたことについて、孝景は斯波義敏との連携を忌避してその子義良(義寛)を擁立し、合戦の状況などを祖父の斯波道顕に報告したことを述べ、義良に対して不義はないことを主張している(「朝倉家記」所収文書)。
 当初の朝倉方の攻撃目標は、甲斐氏が立て篭もる越前守護所の置かれた南条郡府中(武生市)であった。先の河俣出陣や新庄・鯖江合戦は、一乗谷から出陣した朝倉勢と、これを迎え討つ府中からの甲斐勢との衝突であった。新庄・鯖江合戦に勝利した朝倉方は翌四年には府中に迫った。そしてその年八月、ついに朝倉方は府中を攻略し、甲斐方を国外に追放して府中一帯を平定した(『雑事記』同年八月十七・二十日条)。この大勝利に対し、斯波道顕や浦上則宗・伊勢貞宗らの感状や祝状が孝景や氏景に送られた。
 府中攻略と相前後して、敦賀でも合戦が展開したらしい。朝倉氏の東軍帰属が明確となった直後の文明三年六月二十五日には、江北の朽木氏に対し、若狭武田氏と連携して敦賀郡境への出陣を督促する将軍家御教書が発給されている(資2 朽木家古文書一一号)。将軍家が朝倉氏の東軍帰属を画策した背景の一つは、朝倉氏の越前平定によって海路による大内氏以下西国の兵粮を敦賀で押さえ(『雑事記』文明四年八月二十日条)、合わせて北国よりの東軍の糧道を開けることであった(「浦上美作守寿像賛」『続群書類従』)。翌四年十一月十六日付の気比社領大谷浦等の半済に関する孝景の弟景冬の奉書が確認されるから(平松文書一号『敦賀市史』史料編二)、朝倉氏による敦賀郡支配は早くも始動していたらしい。ただし同六年閏五月五日に敦賀天神浜で合戦が行なわれているので(「当国御陳之次第」)、朝倉氏の敦賀郡平定もやはり流動的であった。
 さて、朝倉方の反撃は府中攻略や敦賀郡合戦にとどまらず、越前の平野部にも展開した。坂井郡長崎荘に立て篭もった甲斐方三〇〇〇人に対し、八月八日朝倉方の七〇〇〇人が攻撃して勝利したため、甲斐の下方衆は加賀へ、上方衆は近江へ没落した(『雑事記』同年八月二十日条)。敗戦の苦汁をなめた文明三年の合戦から一転して、翌四年の合戦は朝倉方の連戦連勝の結果となったが、その背景には、斯波義良を擁立したことと、「越前寺社本所領半済之由、朝倉申し入れ、大略御許可」とあるように(同 同年八月二十八日条)、朝倉氏による半済の実施が情勢を変えたものと考えられ、またこのときから孝景が寺社や在地に対して安堵状や禁制を下付するようになる。
 半済に関しては将軍より国全体について実施が認められたが、天皇より皇室領や仁和寺・中御門家・甘露寺家などの所領については半済停止が要請され、将軍がこれに応じたため停止されることになった(『親長卿記』同年八月二十二日条)。この限りでは孝景は将軍の支配に属していたが、将軍の半済停止命令がなかった坂井郡河口荘・坪江郷について停止を求める興福寺に対しては、国において朝倉氏に忠節を尽くした者たちが半済を要求しているので応じることができないとしてこれを拒否している(『雑事記』同年十月十三日条)。配下の武士たちの要求に応える形で孝景が荘園領主の支配から自立しつつあることがうかがわれる。
 文明五年五月に東軍の巨頭細川勝元が死去すると、越前を放逐された甲斐勢は八月に大規模な反撃を開始した。「七月十日比より甲斐人勢を率いて細呂宜郷等に出張、八月八日大合戦」とあり(同 同年八月十五日条)、「当国御陳之次第」にいう「光塚・蓮浦合戦」と一致する。この合戦で朝倉方は大勝利に終わったらしい(「朝倉家記」所収文書)。翌六年は甲斐勢の反撃の年であった。正月十八日に杣山合戦、五月十六日に殿下・桶田口合戦、閏五月十五日に波着寺・岡保合戦があったが、いずれも朝倉方の大勝利に終わり、それぞれ伊勢貞宗の祝状や将軍による軍忠の御内書が発給されている(同前)。

表42 朝倉孝景期の主な合戦

表42 朝倉孝景期の主な合戦



目次へ  前ページへ  次ページへ