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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    二 朝倉孝景の西軍から東軍への帰属
      孝景の東軍帰属
 文明三年に入ると、孝景の東軍帰属もほぼ現実のものとなってくる。二月には、早くも細川方からの情報として、朝倉孝景が義廉の命に背き、直奉公分として東方公方に参仕し、子息氏景も同じく没落して越前に下向し、義敏被官となったと伝えられている(『雑事記』同年二月二十九日条)。そして五月、ついに孝景の東軍寝返りが決定的となる。すなわち五月二十一日、「今度の条々はすべて承知した旨将軍より仰せ出された。氏景の東軍帰属も明白となったので、重ねての御判(御内書)が沙汰された」旨の朝倉孝景充ての細川勝元書状とともに、次のような足利義政による越前守護職補任を示すと思われる御内書と管領副状が孝景に下付されたのである。
 越前国守護職事、任望申之旨訖、委細右京大夫可申候也、
    文明参                    慈照院殿様
      五月廿一日                  御判
      朝倉弾正左衛門尉殿

 越前国守護職事、任被望申之旨、被成御自筆之御書候畢、面目之至候、早々可被抽軍戦候也、恐々謹言、
    文明三
      五月廿一日                 勝元
      朝倉弾正左衛門尉殿
写真178 「朝倉家記」所収文書

写真178 「朝倉家記」所収文書

 この越前守護職に関する御内書についてはこれまでは疑問視されてきたが、御内書発給にいたるまでの一連の文書内容に矛盾点が認められず、また証跡となる関連文書が存在することなどからも、これのみを偽文書とすることはできない。文明三年以降、孝景の発給する安堵状や判物などからみても、幕府との間に越前守護職について何らかの密約があったことは否定できない。元来御内書は将軍の私的消息から発達したものであるが、このころにはすでに御教書に代わる将軍の公用文書となっていた。
 孝景の東軍帰属が一般に公然の事実となるのは、同年六月八日夜のことであった。『雑事記』『私要鈔』をはじめ、『親長卿記』や『見聞雑記』など当時の日記類はいっせいに、京都の朝倉孫次郎(氏景)が東軍方となり、八日夜に細川讃州(成之)の屋形へ馳せ入り、十日に将軍義政に拝謁したことを述べ、越前在国の孝景が東軍化したことが明白となったとしている。
 一方、朝倉方の記録「朝倉氏由緒覚書」(「朝倉家記」所収文書)などには、孝景は在国しているので氏景が文明三年六月九日に将軍直臣の待遇で義政に御目に懸かり、御剣を拝領して若狭を経て六月二十三日に越前に下国したとみえている。氏景越前下国のすべての差配をしたのは、赤松氏の被官の中村三郎であった。



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